

コラム
「怪我の功名」

飯田敏勝
先週の聖餐で、とある兄弟が配られた矢先にパンを食べてしまいました。
わたしの対応は、「これは、わたしたちのために裂かれた……」との聖別の文言を宣べた後に、改めて彼にパンを配り、陪餐してもらいました。
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普通は先の聖別の文言があった後に配餐をするのですが、目下草深では皆で一斉に口に運ぶというので、わたしがその順序を変えています。
聖餐を守ることは教会がしなければいけませんが、その実際の守り方は一律ではありません。聖餐におけるプロテスタント内での最も大きな違いは、信者一人一人が前に出てあずかるか(静岡教会などメソジストはこの方式です)、奉仕者が会衆席に配餐するか、です。
後者の内で、配られたらすぐにでも食していいか、皆が一斉に口に運ぶかは、さほど大きな差異ではありません(が、実際に皆さんが一番気にしているのはここでしょう)。
大切なのは聖別の文言の後に、聖餐の品をいただくことです。
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〈宣言〉の言葉は、単にその人の心の内から出てくるのでなく、むしろ、その言葉が紡ぎ出す世界に、宣言の言葉を発する者も、それに聞き従うメンバーも、共に入っていくものです。
聖餐において語られる文言も、宣言の性質がまさにあります。
式文の言葉と、その言葉を受け止める姿勢なくしては、パンはパンに過ぎません。しかし、信仰において受け止めるなら、天にいますキリストと地上の教会であるわたしたちとの結び付きを保証する聖礼典が力を発揮するのです。
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聖餐の品とキリストとの関係については、カトリックの〈化体説〉、ルター派の〈共在説〉、行き過ぎた〈象徴説〉のいずれとも違い、わたしたちは上に述べたような〈臨在説〉に立ちます。実際の式文だけでなく、それぞれの教派のそれぞれの教理が、きちんと言葉で説き明かしている信仰が聖餐の背後にはあるのです。
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先週の聖餐でわたしが取ったパンが完全に切れておらず(たくあんでよくある状態)、隣のパンとつながっていました。それでちぎりました。
聖餐準備で奉仕者が非常に気にするのが、パンも杯も均等に分けられているか、です。しかし、元々「パン裂き」なのですから、さほど気にする必要はないと思います。
パンを配る際に、実際にパンが裂かれる行為があることは結構本質的です。訪問聖餐ではわたしはそのように行っているので、目にする機会があればご確認ください。