

コラム
「夕拝の特色」

飯田敏勝
草深のみならず、朝の礼拝に集い得なかった方々のために、夕拝を行う教会はあります。
啓子牧師の御殿場への引率の務めがちょっと長引くので、急遽わたしが本日の夕拝を担当します。聖書箇所は同じとしますが、開会の讃美歌は38番に変更しました。続く39番もそうですが、こうした曲は陽が傾く頃合いに歌うからこそ、しみじみ心に沁みますよね。
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イエスさまが日曜日の朝に復活されたからこそ、主の日の礼拝は午前がメインになります。しかし、夕拝でも聖礼典は執行されています。コロナ禍中は人数を分散するため、一日何度も礼拝を献げたりもしました。人数が少なかったりしても、夕拝はまごうかたなき礼拝であって、主に人の計画で開催するその他の教会諸集会とは違う位置づけにあります。
とはいえ実際に集う人数が少ないと、特定の人物に焦点を当てることもあります。今月第一日曜の夕拝にひょっこり英和生が二人集ったので、説教は対話形式を多く取り入れましたし、聖餐の説明も分かりやすく丁寧にしました。
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夕拝だとちょっと余裕を感じ、遊びに近い要素を組み入れることもあります。
今年荒れ野の誘惑の箇所を扱ったとき、「天使と悪魔」なる説教題をつけました。両者揃って登場してくる場面ですから。とはいえ、話の方向性についての誤解も招きかねないので、こんな命名、朝拝ではたじろきますね。
金沢教会時代の内藤留幸先生は、副牧師がいると朝か夕のどちらかの説教を担当されていましたが、ちょっと面白い題をつけて「夕拝だから、ちょっと遊んじゃった」と言われていたことが、わたしがこんなことをする元になっています。
神学生の説教にしても、夕拝のほうが状況的(二度目、少人数)にリラックスできるのでしょう。朝より聞きやすい説教がなされることが多々あります。
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わたしたち人間が真面目に臨みさえすれば、礼拝が成り立つわけではありません。もちろん、いい加減にふざけることはできませんが。
礼拝の主催者は神さまであって、神さま御自身の奉仕があるからこそ、わたしたちもサービス(礼拝、奉仕の両方の訳が可能)できるのです。
人間の側で応答的になされるサービスで、決められたことはきちんとこなさねばなりません。しかしその上で、働くその人その人の個性が作業にも現れ出たりもします。
そんな要素が夕拝には多々現れ出て、楽しいものです。