コラム
「場を作る」

飯田敏勝
10月半ばの休暇中、浅草の寄席を堪能してきました。
まくらで落語家が話していましたが、先に舞台に上がった出演者に客席の様子をよく尋ねるそうです。落語の演目は楽屋でネタ帳(その日のそれまでの演目が記録されているもの)を見て、もしくは、高座で座布団に座ってから決めます。客席との相互作用を考慮しているからです。
わたしが最初に行ったのは三連休の翌日の夜の部だったので、客足もまばらでした。その客席の状態を、仲入り(休憩)より前は「一人一人は良い客なんだけど……」と、あまりに空席があるんで、やりにくそうなことを述べていました。しかし、仲入り後は全体に笑い声が上がり「今日の客席は非常に良い」と複数の演者が口にしていました。特に曲芸が大業を決める時に、実感があったようです。
何が変化をもたらしたのでしょうか? わたしの見たところ、五街道雲助師匠です。
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雲助師匠の出番は、仲入り直前。演目は「身投げ屋」。身体障碍者も出てくるので演じにくくなっていると、御著書にも書かれています。しかし演目の前半、町の様子をさぐる主人公を、雲助師匠は客席をねぶり回すように演じました。
首を左右に向けて、誰が語っているかを演じ分けることが落語では多いですよね。そうした中で違う視線の這わせ方で、雲助師匠はまばらに座る客と客との間をつないだかのように思えます。
ともかく、仲入りの前と後では、 客席全体の雰囲気が明らかに違いました。
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物理的なことは何ら変わらずとも、場が確実に変わることはあり得ます。芸の力でそれを成し遂げるのは、さすが人間国宝です。
教会の礼拝という場の力を語る聖書に、コリントの信徒への手紙一14章があります。ただしこれは、そこに集まった信仰者が形作るものではありません。聖霊が形作るものです。人間はそれに奉仕するのみです。
そこにはやはり秩序があって、信仰者一人一人、礼拝の奉仕者一人一人は、神さまの秩序に適うよう働かねばなりません。そのため信仰の理解も深め、訓練を重ね、鍛え上げられていかねばなりません。その上にこそ、Ⅰコリント14章24~25節のようなことが起こり、伝道が成り立つのです。

