コラム

「コーラム・デオ(1)」

牧師 飯田敏勝

 初場所の天覧相撲は、ちょっと見物でしたね。我らが熱海富士の立ち合いが合わないのに始まって、大関・横綱が総崩れ。コロナ禍を挟んだ6年ぶりとのことで、土俵近辺は並々ならぬ緊張感が漂っていたでしょう。
 一方で観覧席は、貴賓席にスマホをこぞって向けていたのが印象的でした。象徴と国民の関わり合い方も「時につれ」です。気楽に写真を撮れることは、昭和を知る者としては隔世の感があります。先週のニュースではパンダも話題になっていましたが、自分の好きなものや関心のあるものを「見るだけ」なことは、気楽なものです。
 関取たちは違いますよね。はっきり「見られ」ています。緊張するような相手に自分が見られていることは、襟を正されることになります。
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 あの初場所中日は、クリスチャンにとって笑いごとで済まされない気がしています。
 天皇よりずっと偉大な御方と、わたしたちは向かい合うのですから。
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 コーラム・デオは、「神の御前で」という意味のラテン語です。クリスチャンの生き方を語っています。
 日常の中でも折に触れて、そのことは意識するでしょう。神さまが見ているからこそ頑張れる、神さまが見ているからこそ悪いことはできない、といった具合です。
ただし、自分の心の中で神さまと対話するだけでなく、公に神さまと向かい合う機会は、礼拝です。
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 カトリック教会であれば、礼拝堂自体が「聖堂」や「御堂」と呼ばれ、その場所自体が聖なるものと想定されています。
 わたしたちプロテスタントでは、建物はシンプルです。礼拝すること自体で、神さまと向かい合う考えが強いのです。そしてそのとき、何よりも重視しなければいけないのは神の言葉である聖書であり、また、「御名」において神さまといかに関わり合うか、です。
緊張感だけで向かい合う必要はありません。放蕩息子をも迎え入れる親の愛を神さまはお持ちですから。ただし、そのとき自らのあり方を、御前で正していかねばなりません。神さまを観覧するだけでは済まされません。神さまと一緒に生きることの素晴らしさを、我が身をもってどんなパフォーマンスをするのかが問われています。(続)