コラム

聖書に親しむ

飯田敏勝

聖書のなかに海がある
心はいつも航海をゆるされる

聖書のなかに草原がある
心はいつも旅情をたしかめる

聖書のなかに町がある
心はいつも出会いを待っている

人生はしばしば
聖書の外ですばらしいひびきを
たてて
くずれるだろう
だがもう一度
やり直すために
聖書のなかの家路を帰る

聖書は
家なき子の家

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 左記の「聖書」と書かれている部分は、本当は、ただの「書物」です。寺山修司の「あなたに」という詩です。しかし、このように読み換えてもわたしたちは納得できるでしょう。
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 長老読書会を七つの班で読み進めています。班分けと次回のスケジュールは受付背後の掲示板に週毎に貼り出しているので、ご確認ください。
 テキストに基づき、またしばしばテキストを離れて信仰や教会をめぐる懇談がなされていますが、聖書を読むことについては絶えず議論に上がります。啓示すなわち神さまについて知ろうとしたら、聖書にあたるしかないので、それはもっともです。
 ただ、自分で理解して、読解もきちんとして、通読しなければという考えの方が多い気がします。多分、読書会参列者だけでなく、更に多くの方々がそのプレッシャーに苦悩されているのではと推し量ります。
 旧約と新約、全66巻こそが聖書なのですから、それらを読まねばなりません。ただ、外国語を学ぶように読んでいっても、習得できる人も中にはいるでしょうが、そううまくいかない人もいます。わたし自身、自分が関心を持てない内容の活字を読み進めるのは、はなはだ苦痛ですし。
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 ただ母語は(多くの方にとっての日本語は)、単に聞き流すだけで発話に結び付きます。訳が分からずとも、ともかく聞いている内に、話しかけられている内に、「ママ」や「まんま」や「パパ」が出てきて、発展していきます。
 聖書における第一声はヨハネ3:16や詩23編やイザヤ53章でしょう。冒頭の詩のような憧憬をもって親しんでいけば、徐々に聖書の言葉ひいては神の国の理(ことわり)を習得していけるはずです。その信頼感をもって読んでくださればと願います。