コラム
“十字架”に支えられて
飯田啓子
“秋バテ”という耳慣れない言葉を聞きました。暦の上では秋だけど、暑さが続いたりするおかげで、心身ともに緊張を解くことが出来ない状態のことだそうです。3年前に赴任した頃は8月の礼拝出席者が減っていました(夏バテ)が、今年は9月の礼拝出席平均数が落ちています。夏バテには対応できるようになったけれど、その影響が秋バテとして出ているのかと思います。信仰と健康の安心を切に祈ります。
さて9月末に夏休みを頂き、9月29日は久々に母教会で礼拝を守りました。座った席は母の隣り。中学生になってからは両親とは違うベンチに陣取っていましたので、40年ぶりです。一
緒にみ言葉を受ける礼拝を献げることが出来たのは嬉しいことでした。一緒に神様の方だけを見る礼拝です。親として子供が気になり親心というお小言がない。子供として怒られることに窮屈にならない。母と子ですが同じ礼拝者として礼拝を献げる。嬉しい礼拝でした。
その日、集められた礼拝者は、顔見知りの方もいれば、私が97年に転出してからの方もいらっしゃった。思うのは神様からのプレゼントである時間の流れは公平だということです。27年の時間は同じ。皆さんイサク化が起こっていて、まじまじと顔を覗き込まれ、ようやく「あぁあんたか」と安心して笑顔になり、肩や背中をポンポンと叩かれる。このポンポンを受けると、今まで祈られてきた、今からも祈って貰える、と嬉しくなります。
礼拝開始まで時間があったので、受付を済ませてから2階のギャラリーへ。礼拝堂が一望できる大好きな空間です。母教会は講壇に十字架がありません。講壇の後ろは壁ではなくて横開 きの扉だからです。そこを開けると洗礼槽が出現します。洗礼式が行われる礼拝の時だけ開きますが、無い時は閉まったまま。「講壇に十字架が無い」とCS生徒時代に分級の先生に言うと、礼拝堂のギャラリーに連れていかれて、ここから礼拝を見た時に十字架が見えるから心配するなと教えられたことがあり、今も覚えている言葉です。
そして母教会はディサイプルスの伝統を持っています。出席した時に聖餐を受けました。これが力となって帰路が支えられ、そして葬儀礼拝で富山往復が出来ました。神様の凄さを実感するばかりです。
人は変化します。ただ十字架の力は変わらずにいよいよ強く深くなります。それを実感して更に伝えていく。その力は何時も備えられ、神の国の祝宴でほおばることが楽しみです。