コラム

「待ちつつ急ぎつつ」

飯田 啓子

 教団総会議長の雲然先生と5月末からの2週間で、東海教区総会・伝道フォーラム・婦人研修会と五日間、お会いする機会がありました。2週間で五日間もあの声を聞く濃厚さと共に、静岡教会まで500メートル、三鷹まで17キロ、笛吹市まで105キロと久々に距離で会話をしました。速さは関係なし。その距離を移動する。その時間内のお楽しみは人それぞれ。婦人会の講演でも大幅に広がった移動距離を先生が、その時間内に何をしているのかが語られていたと思います。基本、雲然先生は奥羽教区内だと車移動。教区外だと電車移動。距離を有効に使える方です。
 先週は島田教会の林牧師との交換講壇でした。去年に引き続き相手教会の牧師に見送られての出発になってしまいました。天気や通行止めを読むことは雪国で身につけましたが、渋滞を読むのはまだまだ出来ません。渋滞を見越して一時間と考えていました。
 島田教会を往復して気が付いたのは、蒲原教会とほぼ同じ距離だということです。島田と蒲原の中間に草深教会がある。“県庁所在地の市“の意味を改めて考えながら、慌てず急がずの往復運転は行きが曇天、帰りは晴天。雨雲が晴れて行く道中でした。

 今日の礼拝は竹村神学生が説教奉仕をしてくれます。確認すると、礼拝予告依頼(6月7日迄に)したのが4月26日。聖書個所と讃美歌が届いたのが同日の夜。ただ説教題は締め切りまで待って欲しいとのことでした。先ずは驚きました。だいたい締切日ギリギリ、中には忘れて催促をしなければならないケースもあり、早い目に余裕をもって依頼を出すことにしています。
 予想に反して早く予告の一部が届いたことを頼もしく思いながら、説教題が決まらない=釈義と黙想の重さを感じつつ、聴く・聴き続ける釈義と黙想のために祈りを新たにしました。

 待ちつつ急ぎつつ。終わりの日を待ちつつ、終わりの日が起こった時には急いで駆けつけられるようにと、家の前に馬を繋いでいたブルームハルトというドイツ人の牧師親子がいます。荒れ野や洪水の中を生きていると何時の間にか急ぎつつ待つ、本末転倒に陥っています。
 希望を待つ。希望が出現したら急いで駆けつける。主に聞き従う歩みを献げていきたいと思います。