コラム

復活に満たされて

牧師 飯田啓子

 イースター礼拝と墓前礼拝を、復活を信じる兄弟姉妹と共に喜び祝う礼拝を献げることが出来て感謝です。特にイースター礼拝の後奏、祝祷のさ中でしたが聞きほれてしまい、主は生きておられる!と叫ぶのをこらえるのに必死でした。
 
復活から送りされた今週、3階南西側の部屋(教会正面玄関真上)から外を眺めてコーヒーブレイク休憩に はまっています。リビングだと隣の美術館に遮られて、広々とした視界を確保することが出来ませんが、南西側の部屋だと先ず教会の十字架が飛び込んできて、空が広がっている景色を眺めながら一息つけます。
 
草深教会は牧師館と礼拝堂が一体型。これは私にとって初体験です。今まで礼拝堂と牧師館がセパレート型ばかりでしたから、牧師館の玄関を開ける、リビングのカーテンを開けると、礼拝堂・十字架が 視界に 飛び込んでくる 景色が 当たり前でした。敷地は同じですが建物が違う。派遣された場所から十字架に見守られながら生活し、礼拝へと出かける。四季によって変化する気温や天気によって必要な衣服や小物が替わる。それを楽しむことがセパレート型だと出来ます。

 秋田にいる頃、一体型しか知らない牧師が、隣の教会が牧師館を献堂し内覧会を行った時、礼拝堂が見える窓辺に佇み時間を忘れて楽しんでいたことがあります。どうしたの?と聞くと、初めて牧師館から礼拝堂を見上げた。こんな風に見るのは初めてだから不思議でたまらない、と驚き喜んでいた姿を思いだします。私たちは視覚や視野にも限界がありますが、天から私たちのことを見守ってくださっている神様の祝福を忘れてしまうことがあります。初めての一体型住居の中で、十字架が飛び込み、空も街も広がる景色の中で、ふと見守ってくださっておられる神様の視線と合わされているような気がしています。見守られ覚えられている幸いを感じながらのコーヒーブレイクは実に贅沢です。

 見守られていると言えば、教会の牧師室に真っ黒のガウンが掛けられていることにお気づきでしょうか?あのガウンは故・松永希久夫先生(東京神学大学学長)が式の時に使っておられた遺品です。先生自身は礼拝でガウンを着用するのは大嫌いだったのですが立場上、神学校主催の式では着なければならなかったので、博士号取得の時に誂えたアカデミックガウンを代用しておられ、それを松永夫人から譲り受けたものです。牧師室に入る時に先ず目に飛び込んでくる。事務仕事や礼拝説教準備をしている時、後ろから見守られている。「笑いの絶えない牧師の生活を心がけよ。決して牧師としてお笑いになるな」と祈り監視してくださっている。招かれた者は招いてくださった御方と、招きだと信じた人に祈り見守られることで育っているだけです。