コラム
我きけり彼方には
牧師 飯田啓子
国道1号線で東を目指すと「大曲」という標識があります。着任して初めてこの文字を目にした時には、涙が止まりませんでした。今はこの看板を見て楽しむ為に、わざわざ国道1号線を走ります(渋滞覚悟で)。
16年前、大曲に赴任して数か月したころ、大曲から田沢湖方面に行くのに初めての道を使ってみました。そこで「浪花字大坂」という地域看板を発見。暫く涙が止まりませんでした。そして大好きなドライブコースの一つとなりました。
どちらも最初に見つけた時は、懐かしさで涙が止まりませんでしたが、何回も通っている内に、涙以上に楽しさや懐かしさの方が大きくなり、ホームシックというよりは、単純に遊びに行きたい!思いの方が深い。帰ることが出来ない故の寂しさよりも、遊びまわった楽しさや安心感があるからだろうと思います。
先日、清水教会出身の神学生が泊まりに来てくれました。実家は既に清水にはないのですが、静岡(県)に帰って来たという嬉しさや懐かしさが弾けた笑顔で牧師館の玄関を開けながら「先生~」と一言。その笑顔と声に思わず「お帰り」が出てしまいました。
「故郷」「ふるさと」という言葉を思い出します。私にとって故郷とは遊び場所が直ぐに思い出せる場所のことです。献身した頃から、実家に帰りたいという感覚よりも、大阪に帰りたいという感覚の方が大きかった。長期休暇に入れば「実家に帰省する」と言うよりは「大阪に遊びに行く」と口にし、実家には顔出しをしないのに、母教会の牧師館(当時は小出先生一家)には上がり込んでいた状態です。
また夏期伝道実習で七尾教会(石川県・能登伝道圏)と高知教会(高知市)に派遣されました。基本的に西の国で、言葉も味も方言や地元の味はあったものの、何処か懐かしさがあって、最後には「ここも神の国」だと実感した。
私にとって遊ぶとは生きることと、地図を作ることです。自分の満足のために遊ぶのではなく、遣わされた地域を知ることで、最初は鳥瞰図(ちょうかんず)や設計図的な地図だったのが、全身が知っているという安心に包まれながら歩くことが出来る地図になっていく。目や頭で覚えていた地名や謂れや味が一つとなって「ようこそ」と迎える側になるような地図です。
教会も同じだと思います。懐かしくて涙が出る。安心して失敗が出来る。思わず歌いだしたくなる。失敗を思い出して赤面する。何時間でも居たいだけいられる。自分の居場所であり、同時に神の国が具体的になり、神様に見守られている平和と和解を覚える。そこに行く地図からそこで過ごす世界になっていく。与えられた全てで実感しましょう。