コラム

2022年6月19日のコラム

牧師 飯田啓子

 今日のコラムは16日(木)に仕上げ、大曲から送信しました。草深教会を覚えて祈り、三階にいる間に練り込み、仕上げと送信は大曲(秋田県大仙市)から。何時も思うのですが本当に何処でもドアが欲しいです。

 さて11日(土)夕方に服部信子姉の訃報が届きました。15日(水)正午からお別れの会とのことで、伺うことは出来ないと判断したので、13日(月)に祈りに行き、14日(火)に納棺式に立ち会いました。

 ご家族から信子さんのことを色々伺いながら、好奇心旺盛な方と感じ、また組会や教会の方から話を伺うと、はっきりとした芯をお持ちの方だったのだろうと感じます。新米静岡県民としては“清水の人”だったのではないかと考えます。次郎長に代表されるような一本の筋を持った生き方をする。それが穏やかな静岡市民とは違う部分だろうと思います。それぞれの地域や気候などによって育まれた気性は、同じ市民・県民であっても個性が出ます。でも家族や神の家族から愛され、何よりも神様から主イエスの命によって贖われるほど愛されている。その事実を確認して、おやすみなさいの祈りと、神様にまだまだ終わりの日までやがなりますと祈るだけです。

 思い出すのは“闇鍋”です。私が神学生時代は卒業礼拝の時に学長の式辞で、卒業クラスを一言で表現すると〇〇クラスだと評価されました。私の学年は闇鍋クラスでした。食べられるものしか入っていないのは解っているけど、何が入っているかは解らないメンバーたちだと評価されました。この評価を受けて、私たちの学年は仲間を信頼し誇りに思い、このクラスに集めてくださった神様を信頼しています。

 教会も闇鍋的な面が多くあるところだと思います。食べられるものしか入っていないのは解っていても、何が入っているか解らない。しかしそこに招集してくださっている御方は神様であり、主イエス・キリストの復活の命が共通した食事です。この中で信仰が育まれ、自分自身の力が木っ端微塵にされ、神様によって生きる者へと新しくされていきます。神様に愛され、キリストの命で生きる召命を与えられて闇鍋が教会へと完成していくのだろうと思います。