コラム

休むことの大切さ

牧師 飯田敏勝

ちょっと面白い体験をしました。
新型コロナウイルスワクチンの3回目の接種を、某金曜日に受けたのです。
1回目の時は、接種部位が痛くなるくらいでした。2回目は数日にわたって倦怠感と微熱がダラダラと、寄せては返し続きました。平常ではないけど必ずしも寝ている程でもなく、中途半端な状態でした。
今回は、接種ほぼ24時間後に38℃まで熱が上がりました。しかしそれがピークでした。ピークに向かって土曜の朝から一気に悪くなり、その後は一方向で回復に向かいました。子どもの関係で用があるとき以外(病気でないことは承知していましたし、全く動けないわけでもなく)寝床で横になり、ひたすら睡眠をとっていました。

ま、そんな事態も想定していて、礼拝の準備は金曜の夜までに終わっていました。普段から私用・公用があったりして、用意周到に準備しておくこともなくはありません。ただ礼拝前日から牧師は何かと気もそぞろになり、礼拝時刻直前ギリギリまであがきたがるものなのです。

なので、本当に一日何もしないで休んで礼拝に臨むということは、これまでほぼなかったかと思うのです。
すると、礼拝の司式や説教をしているとき、妙に冴えていると実感できました。
大先輩の牧師の熊野清子先生が書かれた、礼拝の心得について神学生時代読んだ時のことを今でも覚えています。

「土曜の夜、明日は大切な礼拝の日だから……」ふむ、ふむ。どんな準備をされるのだろう?原稿の見直しやリハーサルだろうか?「……いつもより早く寝てしまう。」ズッコケそうになりました。
それが大切なことは、時折経験します。説教ができない時は、いっそのこと寝てしまったほうが変に徹夜で取り組むよりもメッセージが出てきたりします。
また、おのが知恵や力に頼るよりも、自分ではダメな説教だったと落ち込むときのほうが、高評価(?)を頂くことがあります。その辺、神さまは非常によく御覧になっています。
安息日には休むことが命じられていますが、それでも礼拝する上で牧師は実務的にも精神面にも準備と実践が必要です。しかし、休むことで得られる大いなる平安があること、今更ながら実感できました。

安息日の礼拝の大元には、休んでリフレッシュすることがあります。本来、一日単位で休むべきですが、現代は中々そうもいきませんね。
しかし、礼拝に集うことはその他のスケジュールの一コマと同様なのでなく、安息の頂点、休息をとりに行くのです。
家でゴロゴロ寝てるくらいなら、礼拝で安眠したほうがよほどいいでしょう。讃美歌「きよしこの夜」の英詞‘sleep in heavenly peace’を味わえます。
この世の務めに縛られているわたしたちです。天の息吹によってリフレッシュし、世の旅路をまた一区間勇ましく進み行きましょう。