コラム

宝物

牧師 飯田啓子

 最近はテレビをつければイギリスの国葬関連の映像が映し出される。70年に渡ってイギリスに“君臨すれども統治せず”者として生きて来た人生。彼女の言葉の一つに「キリストのメッセージと教えは私の導きであり、その中に希望を見出して来ました」という言葉があります。主なる神に導かれながら、君臨すれども統治せずという十字架を背負いながら、キリストが頸木で繋がってくださっている。神の愛に対する彼女らしい感謝の告白だと思います。
 そして映像でウェストミンスター寺院が流れる度に興味深く見入っています。とくに礼拝が行われる部分が映し出される度に見入り、そして“エルサレム室”が少しでも映らないかなぁと期待します。この部屋で17世紀半ばウェストミンスター信仰基準が生まれたからです。それも5年半という期間、神学者や牧師が集まり会議を開いた結果です。会議で信仰告白が生まれる。教会会議(教団教区教会総会・長老会会議)が是非とも目指すべき、信仰告白を目指す会議の姿だと思います。牧師や神学者は唯一の神を神とする者たちでありますが、それぞれの教会の伝統を持っています。長老制度の教会、ピューリタン、バプテストやイングランド国教会のメンバーたちがいます。それぞれの教会の伝統を強化するための信仰基準ではなく、それらが一つとされている・一つとなっていくことを希望している中で生み出された告白です。現地に直接行くことは不可能だと思いますが、その生まれた場所を少しでも感じられないかと、興味津々で見入ってしまいます。

 さて小礼拝堂に持ち運び可能な十字架が置かれています(意味や経緯に ついての説明は、後日、長老会から説明します)。提案した牧師としてはぜひ一度、実際にあの十字架を持ってください。かなり重いです。自分自身の罪の重さとそれ以上にその罪が公平に裁かれた赦しの重さを経験して頂きたいと思います。また生まれた時から教会で育った悪ガキとしては、現在、教会員の孫たちが小学校高学年あたりになった頃には、あの十字架を的にしたりして遊ぶようになって欲しいと祈っています。十字架を玩具にするなど怪しからんことだと怒らないでください。やがて遊び玩具だったものが自分の罪と赦しの十字架だと実際に発見していくのは、教会を遊び場所にして育った者の赦しの先取りを知るプロセスだからです。
 教会には宝物がたくさん溢れています。宝の民とされた私たちだからです。