コラム

聖霊に導かれて聖書を知る

牧師 飯田敏勝

日本基督教団信仰告白は冒頭から
「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」とうたっています。典拠としては、「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」(Ⅱテモテ3:16)をまず挙げることができます。
*    *    *
その聖句との関連で、キリスト教の中には逐語霊感説という立場があります。霊の導きの下に書かれた聖書は一字一句間違いがないという説です。無暗に否定はしませんが、一方で人間の言語で存在する限り間違いも生じ得る――そうした側面も現代の学問からすれば、当然の前提としなければなりません。
教団信仰告白も上記のⅡテモテの御言葉も、続いてその聖書の機能を語ります。単に文言の上で間違いがないというのでなく、その機能や規律を重視し、わたしたちはその権能の下にあることを信じています。書かれた文言に絶対の権限を持たせると、律法主義にもなりかねません。
*    *    *
「言うべきことは、聖霊がそのときに教えてくださる」(ルカ12:12)とあります。聖書が書かれたときだけでなく、それが伝承されたり翻訳されるとき、読まれたり(まさに上に挙げた箇所のように)説き明かされるときにも、また等しく聖霊は働かれるのです。
そうした流れを受け止めつつ、わたしたちは聖書を自分自身で読むことによって(8月28日のコラム参照)神の言葉を聞くのです。昨今、聖書の正しさを捉えるために、解説書など他のものを頼る傾向が強いと感じています。しかし「聖霊くだりて/その意味正しく ときあかしたもう」(讃美歌21-378)のです。
「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、〝霊〟に教えられた言葉によっています。つまり、霊的なものによって霊的なことを説明するのです」(Ⅰコリント2:13)。
*    *    *
ひとつの実例として、わたしが聖書通読をしたときに気づいたことを伝えましょう。出エジプト20:5,エゼキエル18:2~4,マルコ2:5の問題点とその解消です。
いずれも罪とその報いについて語られている個所です。報いが一貫していないという点では、矛盾があります。その意味では、聖書に間違い(少なくとも食い違い)があると言えます。しかし歴史を経て神さまがその罰を軽減され、ついには神の御子が肩代わりされるという対応を採られたことは、わたしたちが自らの罪を深く覚えるとき、表裏一体で感謝をも覚えることになります。
神さまや聖書はただ理屈や文字の説明上で間違いがないのでなく、人間に愛や救いを限りなく発揮される点で間違いがないのです。