コラム

これに聞け

牧師 飯田啓子

 4日(火)服部修牧師の講演を聞く機会が与えられました。テーマは「小さい群れよ恐れるな!」。先生御自身の伝道最前線に置かれているという実践と祈りの中から確信を深めた信仰が丁寧に語られ、ひたすら“んだんだ”と頷くばかりでした。
その頷きが何かを修養会終了後に婦人会の皆さんと蓬莱橋を歩いている時に気が付かされました。朧げな幻が点線にされ、点線が実線に、実線がより太い線になり、それが道になる。最初は良し行くぞ!と軽やかに踏み出しても、途中で風に煽られたり、足元からギシギシ音が聞こえたり、板と板の隙間から地上が見えたり、どっちの方向に富士山が見えるのかと立ち止まると、急に現実を思い出してゴールを見失ってしまう。897.422mを渡るまでに何と多くの事柄に唆(そそのか)され、向こう側というゴールを忘れてしまうことでしょうか。
 また私自身は吊り橋を最も苦手としています。歩く度に揺れる。揺れる度に落ちそうになる。今、これを書いているだけでも手の平や足の裏に汗が滲んでくるほど苦手です。高い所が苦手なのではなく、足元が固まっていないことが苦手なのです。バンジージャンプは大丈夫ですが、ユラユラ揺れる足元はダメです。揺れるだけで下ばかり見て前を向くことが出来ない。するとゴールが見えないので足が止まってしまいます。迷子の不安よりも見えない不安に飲み込まれてしまうのです。
 東海教区に来てから多くの講演を安心して聞く機会が与えられています。その中で終わりの日に対する信仰が確かにされている・いくことを感じています。語ってくれた講師たちはそれぞれの言葉(表現)で「これしかない」と、到達するまでの経験と到達した地点を明確にしてくれました。それぞれの言葉(表現)という豊かなバラエティはありますが、異口同音。たった一つのことしか語っていない。宣教という愚かな手段を与え用いられる神様の見事な御業を目の当たりにして、ただただ圧倒されながら誉め讃えているだけです。
 終わりの日に向かう生活の中で、私たちを唆(そそのか)すものは後を絶ちません。しかしそれらをも用いて、主イエスが再び来られることに期待する。聞くことで期待が増し、聞き続けることで希望が大きくされる。
 「どうぞお話しください。僕は聞いております」が「マラナ・タ(主よ、来てください)」の新しい祈りに代えられていく。何時も「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」という神の声が響いているだけです。