コラム

ホーム感とアウェー感

牧師 飯田敏勝

 先月、わたしの本務である静岡草深教会の主日礼拝説教奉仕がありました。土曜日は早めに到着する予定にしていましたが、水曜に亡くなった大曲教会員の葬儀が週末にかけて(金曜に前夜祈祷会、土曜に葬儀と納骨)入りました。
 葬儀が入るのはいつも急なので一向に構わないのですが、今回は大いに戸惑いがありました。
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 牧師と教会の務めの一種に冠婚葬祭があります。結婚式は、必ずカウンセリングなどの準備をしますし、キリスト教式で行うことを当時者たちに理解を求めます。
 しかし葬儀は、基本的に依頼されたのなら断りません。わたしたちが世に仕える務めの一環でもあります。見ず知らずの方の葬儀を請け負うこともあるし、故人の信仰の有無も問いません。
 ただし今回は、辞めた教会の葬儀です。本来ならば代務者として他所の教会員として接するのですが、16年間仕えた教会でご遺族とも、同じ集落の参列者の方々とも勝手知ったる仲なのです。
 それこそ葬儀直前に実際に言葉を交わさずとも、目くばせだけで「わざわざ参列、ありがとうございます」や「先生もご苦労様です」といった意思疎通ができています。
 本来アウェーなのに、ホームのように振る舞えるのです。
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 一方で葬儀を終えて新幹線に乗って、夜中に静岡に駆けつけました。時々ある他所の教会に奉仕するようなスケジュールや対応です。
 説教自体は今わたしが責任を持つべき羊たちに向けてのもので戸惑いはないのですが、参列者を教会玄関で見送るときは迷いました。感想を述べてくださる方はいいのですが、一言「ありがとうございます」だけで通り抜ける方が大半です。普段から付き合いがある(というか牧会している)なら、こちらからも自ずと発する言葉が出るのでしょうが、まだ一向にそれがありません。着任後半年経っているのに、です。
ホームなのにアウェー感満載です。
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 牧師として一般的に携わる務めもあります。しかし担任教師(これは副牧師の意味ではなく、その教会に責任を持つ牧師の意味です。複数いたとき一人を主任担任と定めるまでです)として牧会するのは、一朝一夕でなし得ることではありません。
 辻宣道『教会生活の処方箋』を今読むと、やたら「わたしの教会」という表現が出て来るのが気になります。教会の頭は唯一であって、牧師のものでは決してないからです。
 ですが辻先生の言い方は、ホームグラウンドで責任もって牧会している教会のことと読解すべきでしょう。