コラム

クリスマスを待つ

牧師 飯田啓子

 12月、師走に入りました。静岡で初めてのクリスマスを迎えようとしています。高校卒業する頃までは「24日イヴは教会の家族とキリストを迎え、25日クリスマスは家族と一緒にキリストを喜ぶ」と教えられていました。また免許を取り自家用車が与えられ、時間を自由に使えるようになった大学社会人時代は、クリスマスやイヴ礼拝の讃美練習で疲れた教会のオバサン達が「ひざ(足でも肩、腰、声なんでも可)痛いひざ痛い疲れたこの練習」と迷曲108番を口ずさみながら練習場所から出てくるので、「解ったよ、送らせて頂きます」と家とは全く逆方向ですが、一人一人を送り届けるドライバーでした。ただその車中は賑やかでした。大阪のおばちゃん特有のスピード感溢れるしゃべくり。あっちが痛い、入れ歯が合わない、年金が足りないと嘆きながらも、実はチャッカリ楽しんでいる。生きているのではなく活かされていることをチャッカリ楽しんではるのを聞きながら、ホンマおもろい時間でした。終わりの日、あの迷曲がちゃんと讃美と告白になっているのだろうと楽しみで仕方ありません。
 12月最初に届いたのは「不合格じゃない」との息子からの電話でした。素直に合格したと言えば良いのにと思いながら、嬉しそうに報告する声を聞いて嬉しく思いました。でも何日までに入学金を納める。4年間の授業料や生活費などを考えれば、嬉しくもあり嬉しくも無い気分ですがチャッカリ楽しみます。
 前任地時代、能代教会で出会った信徒の方がいます。既に90代半ば。長老として現役で、司式も果たしますが、ストップを掛けなければ聖書拝読も祈祷も続く。ただその方の献金の祈りは惚れました。「神様、今日も感謝を献げることが出来て、これを受け取って用いてくださりありがとうございます」。預かったものを献げる誇り、使って貰える誇り。その誇りが神様を頌栄する声として、ストップをかけるまで響く。終わりの日の礼拝でどれだけ誇らしげに声を出しておられるのか楽しみです。
 クリスマスを待つアドヴェントの季節です。人間の罪も感動も本気も何もかも受け取り背負い十字架の道を歩んでくださった救い主がお生まれになる。成し遂げて今なお罪人に与えた信仰が無くならないように執成しの祈りを献げてくださっている救い主がお生まれになる。その声が響き渡るクリスマス礼拝。その声が完成する終わりの礼拝の時まで、草深教会よ、救い主の執成しの祈りの中を「真っすぐいっけェ~」と祈り続けます。