コラム

身体が語るもの

牧師 飯田敏勝 

 教団の委員をしていると事務所のある早稲田に、時々出張があります。スケジュール的に1~2月に委員会のあることは多いんです。
 その翌日は大抵、体の中の空気を入れ替えたい思いでスキーに行っていました。前日の都会の雑踏の中を歩くのに比べ、秋田の人気(ひとけ)のないゲレンデを滑るのは爽快でした。そんな様子を見てリフト係のおじさんから「楽しそうに滑りますね」と声をかけられたこともありました。
 自分で考えている以上に、身体が表現していることもあるのだ――と、そのとき気付かされました。
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 大曲では時々、教会員の奉仕によるミニコンサートを行っています。ファミリーコンサートのノリで、交流が主な目的です。先のクリスマス後にあったとき、わたしも数曲を披露しました。一昨年はミュージカル『レ・ミゼラブル』から「ブリング・ヒム・ホーム(彼を帰して)」という曲をテナー・リコーダーで吹きました。私が去っても彼を守ってという内容の曲で、実を言えば離任に際しての祈りを込めたものです。
 今回は、秋にポール・ニューマンのリバイバル上映があって、ただただ自分が好きで奏でたいというだけで「雨に濡れても」をオカリナで吹きました。紛らわしい曲名の「雨に唄えば」も冗談半分でチョイス。
 しかし練習中、伴奏をしてくれた方がわたしの演奏からどんな気持ちなのかを、ただ音色から感じ取って言い当てられたのは驚きでした。
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 普段牧師は、理性も伴う言葉――先月のコラムにも書きましたが、ヨハネ福音書1章のロゴス――を生み出すことを思案しています。
でも、説教にしても感情が伴うこともありますし、ましてや運動や演奏な
どでは明言することが全くなくとも、身体や音色によって相手に語り伝えるものがあるのでしょう。
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 クリスマス後に礼拝に来られなかった方々を訪ねた際に、最後のささやかなプレゼントのつもりでオカリナを吹きました。面白かったのは、思いがけずそれが教会員以外の家族を牧師の前にも誘い出すことにつながりました。
 吹きますと言ったら家族を呼んでくれた家もありましたし、吹いていたら自ずと音色に釣られて出て来られた方もいたりしました。
 笑ってしまったのは飼い猫も自ずと出て来て、鎮座して聞いてくれたりもしたことです。ミニコンサートではオルガン伴奏による間奏(♪レ・ミー、レ・ミーという)部分は明らかに曲調が変わり、そこでは猫の表情も変わりました。きちんと曲が伝わっていたことが分かります。