コラム

さてさて

牧師 飯田啓子

 先日、東京神学大学の卒業式がライブ配信されるというので、駿河の国から祈りを込めて中継を見ていました。式辞は芳賀力学長、祝辞は教団議長の雲然俊美牧師(秋田桜教会)と藤掛順一牧師(横浜指路教会)、祝祷は理事長の近藤勝彦牧師。画面越しでの対面でしたが、皆さん年齢が表に出るお年頃真っ最中だと思いました。ただ議長だけは相変わらず黒々とした御髪なので若々しく見えます。外側は衰えていきますが、彼らが衰えていないことは、その声で知ることが出来ます。その声とは主への信頼の声でしょうか。
 声が若い。それは祝辞とその声が印象的だったからです。雲然先生は御自身の失敗と悔い改めの経験を「自分は正しく御言葉を語り、聖餐式を執行し、礼拝を 守っていることが 伝道になる
と信じていた。けれども伝道は神様の業。神様が用いてくださることを信じていなければ意味がないことを卒業してから何十年も経って知った」。   
 藤掛先生は「卒業生に御言葉を贈ります」と仰って第一ペトロ1章5節の御言葉を口にされました。その声にはこの御言葉そのものである主イエスへの信頼が満ちていました。
 主御自身が働く。その中で牧師も信徒も用いられる。この確信に至るまで牧師達は(わが身の反省を踏まえた上で)鍔(つば)迫(ぜ)り合い的な競争という背比べをしているだけではないのか。主の御前で立ち止まり、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と赦しを求め乞う、悔い改めの祈り告白を後回しにしている自分の貧しさを突き付けられ、そしてこの罪が十字架の主によって無罪放免にされている赦しを新しく確信します。
 伝道に用いられる者として、数で振り回そうとする時代の中に放り込まれる中で、問われているのは自分の正しさではなく、主御自身への信頼です。この質に立ち続けることです。数の視点からでも教会と神の関係、教会と教会の関係に割り込んでくる、賢いへびの手段。それに対応するのは、主に信頼をおくだけだという信仰と悔い改めです。
 気付かされた時、「罪人のわたしを憐れんでください」と赦しを求め、赦されて初めて、大きくなる。この大きくなった声を新しい歌として、声として主に向かって歌い献げていく。罪赦された者が一つところに召されて、罪赦してくださった神を礼拝する。天の希望を目指して進みたいと思います。