コラム

全節讃美

牧師 飯田敏勝

 3月の長老会で話し合い、既に報告もなされていますが、来週以降4月からは讃美歌を(1節だけでなく)全節歌います。
 「ハレルヤ!」との思いもあるのですが、タツノコプロのアニメで育った世代として「ヤッター!×3+α」という歓呼が出てきそうです。
*    *    *
 コロナ感染リスクの高い行為として、歌唱や飲食を含めた一か所に集まることがあるのは間違いありません。しかし緊急事態宣言下でも、礼拝行為は自粛対象ではありません。
 それでも公衆衛生学的見地から、自他のために教会も讃美歌や聖餐の伴う礼拝を自粛することは、採り得る道でした。
 コロナの感染方法や、流行の波の程度に合わせて対応する術が判ってきた今、緩和の方向に舵を切るのは当然です。
*    *    *
 讃美歌はただの歌ではありません(参照、308)。礼拝の中の役割があります(21-19)。
 歌詞には展開もありますから、1節だけでは堪能できない要素があります。どの節を歌っても似た内容の場合もあります(例に挙げるのは失礼ですが、312.展開はあるがゆるめの109.似た内容が積み重なることで効果を上げる、こども10など)が、起承転結が明確であったり(202)、時間経過が描かれていたり(21-290)、それらが複合的に表現されていたり(121)します。パラフレーズといって、聖書の言葉そのものを歌詞にする場合も、多節にわたることになります(Ⅱ41)。
*    *    *
 わたしたちは信仰を、説教だけから教わるわけでありません。
 啓示の源泉である聖書をふまえることは必須ですが、頭で理解したことだけが正しい信仰なのでありません。体と心に染み入る効果を持つ歌を、わたしたちは礼拝の要素として定めています。
 目がかすみ、頭がボケたら、文字で書かれた聖書は把握しにくくなります。そうなると黙読、説教、自由祈祷など散漫になりがちです。
 しかし体に染み込んだ暗唱聖句、主の祈りなどの定型の祈り、そして何より愛唱讃美歌は心身がどんなに弱っていても、思わず口をついて出て来くることがよくあります。
*    *    *
 理知的な要素を重視する傾向が日本のオーソドックスなプロテスタント教会には強い気がします。
 コロナ禍で礼拝行為から遠ざかったり、縮小しても当然とすることは、悪魔がこの上なく喜ぶ事態です。悪魔への抵抗は、イエスさまにしかできません。人間がなし得ることは、その勝利の御旗を振るように高らかに讃美することだけです(266)。