コラム

説教要旨

牧師 飯田敏勝

 この週報のコラム欄に説教を載せてもらえないかというリクエストがありました。3月の長老会では、コラム欄に信仰訓練や教会形成に資する働きもあるということで、リクエスト通りには応じませんでした。
 ただ、説教を聞くために助けが欲しいという声も無視することはできません。4月の長老会で敏勝牧師に限って、その日の説教要旨を受付で配ることにしました。
 ただし、説教は聞くものです。
 その本質を見失ってはなりません。
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 ヨハネによる福音書1章39節は、英語で‘come and see’です。邦訳には二つの方向性があります。‘I see’は直訳「わたしは見える」ですが、慣用句として「分かった」という意味になります。これは中学英語で習いましたよね。つまり〈見る〉ことは、〈分かる/理解する〉ことと密接な関係があります。
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 一方で〈聞く〉ことについて、申命記6章4節を代表的な聖書箇所として挙げることができましょう。マルコによる福音書12章29節でイエスさまも引用されます。右から来たものを左に受け流してはいけません。ヤコブの手紙1章22節が、聖書の〈聞く〉の精神をよく教えています。申命記の箇所をはじめ、単に「聞く」のではなく、「聞き従う」と翻訳すべき部分も多々あります。
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 で、説教は聞くものなのに、皆さん必死で見ようとしてないでしょうか――という課題が、この要旨配布には伴います。
 リクエストの根底には、「年取って、理解が遅くなって……」や「耳が遠くなって……」があるのは百も承知ですが、それらは理解と関わることです。説教が信仰者個々人を養うことも、当 然します。しかし、一つ所に集まって皆で聞くとき、コリントの信徒への手紙一14章24~25節が実現します。真に神の言葉を聞いたなら、醸し出るものが確かにあるのです。
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 ローマの信徒への手紙10章15節は説教者に限ったことではありません。礼拝説教を聞いた者たちが、今度は福音を携えて行くことで、〈従う〉を実現するのです。
 リクエストの根底には又一つ、礼拝に来られない方に説教を届けたいという思いもありました。しかし、牧師の原稿に真実があるのではなく、礼拝によって得られた救いの喜びを聞き手自身が生きるところに、正しい説教の受け止め方があるのです。要旨をそのまま読んだり渡したりするのでなく、「このところで誰それさんが笑った」でもいいですし、礼拝の様子や御自身の思いを付加して、聖霊と共に語り広めていってください。あなたも美足になります。