コラム

主日礼拝の曜日と時間帯

牧師 飯田敏勝

 大曲教会の牧師館リフォーム工事開始前の2月、静岡に送る荷物は早々に送ってしまいました。その後は会堂に借り暮らしでした。テレビがなく、スマホの画面でラジオ体操やみんなの体操をしていました。
 思い立ったらできるのは便利な反面、6時25分なり9時55分なりに合わせて行わないことにちょっと違和感を覚えます。
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 礼拝の時間を変えていいかどうかは、議論の余地があります。
 もちろん家庭礼拝などでは、参列者が集まりやすい曜日や時刻に設定すれば構いません。
 ただ、日曜日の主日礼拝は、午前10~11時開始の教会が多いでしょう。無牧などで午後開始のところもあります。床屋さんのために月曜日に礼拝をささげるという話は聞いたことがあります。
 ただ少なくとも、その教会の活動の一番中心となり、聖礼典も執り行われる、誰しもを招く公同の礼拝は、主の日(イエスさまが復活された日曜日)の朝に行われるべきであろう――と、わたしなどは考えます。
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 前述のようにその教会の都合で叶わない場合は、曜日や時間帯を変えることもアリです。わたし自身もそのような場に、喜んで奉仕してきました。
 しかし日曜日の朝に礼拝することは、人の都合よりもイエスさまの出来事を優先させることであり、人の働きを止める安息日の精神にふさわしいものではないでしょうか(出エジプト20:9~10,申命5:13~14)。
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 まだまだ伝道途上の日本のような地で、参列者が「日曜日だから」で制約を受けるのは、ある種の証しにもなっていましょう。
 無論、皆が皆そろって頑なに守れというわけでありません。
 仕事で日曜日を使わねばならない人や状況もあるでしょう。町内会やプライベートな用事でも、どうしても外せない日も出てはきます。そんな際は、基本朝と同じもおのが供される夕拝にあずかればまずは構いません。一回礼拝にあずかれなかったといって、牧師が目くじらを立てはしません。
 教会全体としての姿勢を話題にしているのです。
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 クリスマスの出来事は(直接的には)二つの福音書しか記していませんが、イースターは四福音書がそろって書き記しています。ユダヤ教とキリスト教が決定的に分かれた一つの要因は、安息日を土曜から日曜に変更したことでした。
 天地創造もエジプト脱出も神さまの偉大な御業ですが、イエスさまの復活はそれらに劣らぬもので、それをあがめる姿勢が礼拝の時間設定には潜んでいるのです。