コラム

大喜びで走る

牧師 飯田啓子

 …ここで鼻から息をする人間達は、置いてけぼりにされます。神様の喜びについて行けず、理解できないのです。だから恐れるのです。しかし、マタイはここで「大いに喜んで走る」二人の女達を描きます。この女達も、この出来事を理解していません。だから「恐れながらも」なのですが、何故か「大いに喜んで」いるのです。それは理解を超えた不思議な力に捉えられて、喜ばずにはいられないのです。大いなる神の喜びが、この女達を喜ばずにはいられなくしているのです。女達は「大喜びで走る」のです。それは天使に命じられたように「弟子達に伝える」ためです。この神の大いなる喜びに満たされて、その喜びの中を、伝えるために走る二人は、教会の姿です。伝えるために大喜びで走っている二人に、復活の主イエス・キリストが向こうから声をかけられます。「喜べ」。
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 上記は4月27日に召された小出望牧師の下石神井教会での最後の説教です。ちょうどイースター礼拝の時です。福音を聴いてそれを語り、そして聖餐の恵みに与る。その日、教会の業を終えて家に戻ってから「これが最後の礼拝かなぁ」と一言口にされたと聞いています。思うに終わったという疲労や、まだまだ語り続けたいという思いを超えて、いよいよ行くぞ、行けるぞという思いからの一言でしょう。
 先生の最後の礼拝の姿はYouTubeで拝見できます。説教原稿では「喜べ」で終わっていますが、配信を見ると「お前ら喜べ」と「お前ら」が入っています。説教の言葉としてはあまり使わない表現です。それを口にしたの
は、本人の意志や意図ではなく、神様から言葉を預かりそのまま伝えたからでしょう。
 私は先生とは多くの交わり(この世的には腐れ縁)がありました。迷言の牧師として尊敬しています。名言でも明言でもなく迷言。何時も神の言を求めてそれに与りそのまま語る方でした。同時に預かった福音を誰よりも喜ぶ方でした。今頃は天の祝宴の食事を待ちきれず、あなたが神様だったんですね!と大喜びをしている真っ最中だろうと思います。復活の時まで大人しく寝ていろと休息と平安を祈り、復活の食事で家族一人一人を満たしてくださいと、天の慰めである復活の喜びを祈るだけの、葬儀礼拝ですが天の喜びを喜ぶ礼拝でした。