コラム

コロナ禍後の礼拝

飯田敏勝

 新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が流行して、「アフターコロナ」や「ウィズコロナ」といった言葉もしきりと叫ばれました。完全消滅は当然できず、この病気との共生が実践的に問われています。
 今月にはWHOも、2020年1月からの「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態」の宣言を終了しました。とはいえ完全消滅したわけではありません。また個々人として心配が残るのも分かります。とはいえ社会としては、最悪の時期を超えたので、次にどう歩むかが課題になっています。
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 教会の歴史上、類を見ない事態でした。たとえばペスト流行時、教会に集まって祈るのは(現代の対処法が分からないから仕方ないですが)公衆衛生学的には多大なる問題があったとしても、祈ること自体を妨げられることはありませんでした。
 今回のパンデミックでは、科学的見地から礼拝を自粛せざるを得ないのも仕方ありません。緊急事態宣言下であっても、宗教活動(礼拝や伝道)は、決して自粛対象ではありません。それでも、教会が置かれている地域や周囲の人々のことも配慮したとき、世間一般の集会と同じようにコロナ対応を採るのも止むを得ないでしょう。
 ローマ教皇がイースターのミサを独りで行っていた姿は、今でも脳裏に焼き付いています。
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 自分自身に、また隣人や社会全体に、不安がまん延している時こそ、教会は祈るべきです。
 ですが本来の祈りの場である礼拝に集うことが許されず、信仰に立つことも個々人に委ねられました。しかし信仰は、信念の強さで成り立つものでは決してありません。
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 コロナ禍はこの上なく悪魔が喜ぶ状況であると、渦中にあったとき(大曲在任中の話ですが)から主張してきました。だって、信仰者が神さまから離れやすいんですから。
 信仰はどこで培われるのでしょうか。礼拝に集い、声高らかに讃美を歌い、信仰を頭だけでなく体にも染みわたらせるところです。自分で理解するだけでなく、説教や聖餐で養われている群れの中に身を置くところです。そこでこそ、教会の頭からの声をきちんと受け止めることができ、教会に連なる者たちが育っていけます。
 本来のそうした場がことごとく奪われ、神さまとわたしたちのつながりが希薄になりかねない事態こそが、最悪のコロナ禍でした。
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 前回コラムにも書きましたが、なお流行拡大予防や人々の不安に対処するためにも、礼拝の仕方や教会諸活動は完全に元通りにはなっていません。
 しかし、従来の仕方がどうしてそうであったのか。そこにある信仰が養われる仕方を思い巡らし、憧憬を抱き続けることが大切だと考えます。