コラム

『け』&『く』

牧師 飯田敏勝

 クリスチャンであることは、「教え」によってだけ成り立つのでなく、生き方をも示す「道」によるのだ――と、常々考え、主張しています。
 無論、洗礼を受けることによってクリスチャンの名を冠せられるのですが、その本質部分の話です。
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 単なる「教え」であれば、わたしたち人間がポータブルです。つまり、好きに持ち運びができるものであり、わたしたちが自由に扱い得るものになってしまいます。
 しかし、逆にわたしたちが身を運んでいって、体験しなければならない要素が「道」にはあります。信仰者が集まるところにこそ特別な啓示があることは、マタイ18:20やⅠコリント14:24~25をご参照ください。
 秋田の代表的な方言に「け」があります。
 大曲教会員に外国語にも長けた才女がいて、なんでこんなに短い文が成り立つのか解説してくれました。ローマ字表記すると“kue”なるものが、音便で‘u’が抜け、“ke”になるのだ、と。だからこの一音の語で、「食え」丁寧に言えば「召し上がれ」、ひいては「来なさい」という意味も生じます。
 また「け」と言われたならば、「く」(「食う」「いただきます」)と応じるものです。
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 イエスさまのことを身辺調査的に探ろうとしても、本当に知ったことにはなりません。
 「来なさい。そうすれば分かる」(ヨハネ1:39)は案外重要です。
 表面的な「今夜どこに宿泊するのですか」という問いに対する答えなら、文字通り、追跡して確認すれば分かる事柄でしょう。しかし、38節の問いにある〈泊まる〉という単語は〈留まる〉の意味で、この福音書に数多く登場します。つまるところ、「神の救いの計画の中でどこに位置しているのですか」や「神とどういう関係にあるのですか」といった内面的な重要な問いを含んでいます。
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 他の福音書(マタイ、マルコ、ルカ)は素直に「イエスとは何者であるのか」を説き明かす(参照、マルコ15:39ほか)のに対し、第四福音書――観点が少し違うことでこうも呼ばれますが、要はヨハネによる福音書――では、それが「どこ」で説き明かされる側面があります(参照、ヨハネ14:5~6ほか)。
 模範解答を口にするだけでは済まされず、身体を伴い人生そのものにおいて、イエスさまに従い行くところにこそ、答えはあります。
 人間のための救いの御業は既にすべて成し遂げられています。それらが「け」と差し出されています。「く」と素直に受けとめることこそ、教会の信仰です。