コラム

池のカモをよく見なさい

牧師 飯田敏勝

 城北公園にカルガモの親子がいます。わたしは写真を撮るため、孵化(ふか)した週には連日通っていました。実際に現地で観察していなくても、以下に述べる生態は想像に難くないでしょう。
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 カモの雛(ひな)は卵から孵(かえ)ると、すぐに母親について歩き、泳ぎ、餌(えさ)をとります。母親の後をついていく習性は確かにあるのですが、時に雛は見つけた餌に夢中になって置いてけぼりになったりします。
 人間の赤ちゃんも同じですが、24時間サイクルで寝起きしているわけでありません。カルガモ一家も雛の体力に合わせ、数時間おきに昼寝をします。その入りや明けのタイミングが合わずに一羽だけ動いていたり、一羽だけ動かない雛がいたりします。
 母親も全体に気を遣(つか)ってはいます。

 それでも一家族に十羽足らずの雛たちがいます。絶えず人数(鳥数?)確認をしているわけでもないですから、群れから脱落する雛も出てきます。
 更にはカラスに狙われただとか、側溝に落ちただとか、巷の報道でもよく見聞きしますよね。
 城北公園では見守り隊も発足して、できるだけ雛が欠けることなく育つことを願っています。池のほとりにいると、昨日までの状態がどうだったとか、カラスが何をしただとかという噂(うわさ)話がしきりと聞こえてきます。
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 聖書には百匹の羊のうち、一匹が迷い出したら、それを捜し、見つける喜びをこの上ないものだと語る話があります(マタイ18:10~14)。
 もちろん羊のたとえでわたしたちも理解し得るのですが、カルガモでたとえられたほうが日常生活と密着していて、実感が湧くのではないでしょうか。
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 上記の聖書箇所の間に、「人の子は、失われたものを救うために来た」(マタイ18:11)との御言葉があります。
 群れからはぐれた一羽を心配し、なんとか元に戻そうとする想いは、カルガモ一家を見ていれば誰しもが抱くことでしょう。
 神さまはそのようにわたしたちを見ておられます。
 物理的に迷子になることも晩年の切実な課題です。そうでなくとも「これから何をしていいか分からない」と気持ち的に行き先を見失うことや、現状や将来に不安を感じて立ちすくむこともありましょう。他と足並みが揃わないと爪はじきにされたり、自分でも悩んだりします。
 ですが、神さまはそんなわたしたちを見守り、見つけて自身の御許へと連れ戻すためにイエスさまをこの世に遣わされたのです。単純なたとえですが、キリスト教の本質はこんなところにあります。