コラム

教会が供する食事

飯田敏勝

 先週の長老会で友愛セールのことも話し合われ、焼き菓子や弁当の販売も承認されました。大がかりなコロナ禍も過ぎつつあり、諸々の対応も見直されてきています。
 クリスマスも視野に入ってきて、愛餐会に期待をかける思いも聞こえてきています。しかし今年も、祝会は行わないことは長老会で確認されています。
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 教会としてのコロナ対策はGW明けにだいぶ緩くしましたが、会食は未だ行わないことにしています。
 ただし、それは教会が主体となって供する食事であって、教会内で小規模で一緒にご飯を食べることは構いはしません。
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 教会が供する食事として、実際の食事の愛餐と共に、少量の加工物を用いる礼拝行為としての聖餐があります。
 そして、教会としては聖餐の食事をまず取り戻さねばなりません。
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 目下パンは個別の容器に入っています。切りそろえられたパンが盆に並んでいるのと大差ないと思えるかもしれません。
 しかし、聖餐の別の呼び方として「パン裂き」があります(使徒言行録2:42,20:7など)。イエスさまの十字架を記念するとき、「体が裂かれた」ことを単に司式の言葉で聞くだけでなく、象徴的行為を示すことは本質を突いています。
 実際に聖餐の中で、パンを割く行為を行うかどうかはアディアフォラ(8月27日の説教要旨参照のこと)ですが、明らかに個別に分けられてしまっているのと、一応元のパンの形を示すことは、信仰の個人化と戦う上でも重要だと考えます。
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 マスク着用も依然続いていますし、コロナ禍前に完全に元に戻るとは限りません。それはそれとして、讃美を歌う際に本当に間接的な声出しでいいのかも、信仰的議論の余地は大いにあると考えます。
 司式や説教が明確に発話(マイクが音を拾うことも考慮)し、そして発話者の意図を聴衆にきちんと届けるためにもマスクを外しています。神さまを相手にした讃美の担い手一人一人にも、しかるべき点がありましょう。
 元通りの仕方だけが解答ではありませんが、もう少し讃美の際のマスク着脱を鷹揚にすることと、聖餐を元通りの仕方で守れることに、少なくとも牧師は高い関心をもっています。教会内の他の課題より、優先度は高いだろうと判じています。
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 礼拝は概要を教わって判断できることではなく、体験学習でしか価値判断はできません。讃美や聖餐の恵みを草深教会がいかに味わい知っているかが、問われる判断だと思います。