コラム

イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた

飯田啓子

 9月一週目にコロナに感染してしまい、皆さまには多くのご心配とお祈りを頂きまして感謝します。

 夏休み後半は関西でした。先ず米原・安土を経て京都へ。先輩牧師を訪問して来ました。この方は1969年新卒で静岡教会に着任された方です。一緒に伺ったのは2005年静岡教会に赴任した後輩で、静岡に所縁のある3人が集まり、賑やかな時間を過ごしました。
 静岡教会から見た草深教会や、深町時代の静岡教会、また1970年の所謂、教団紛争を伝道師として経験した話など、色々と気づかされることばかりでしたが、最後は3人とも“イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について”に落ち着く。誰かがリードしたり 打ち合わせをしたわけではありませんが、話のオチはエルサレムの最期のことでした。牧師だからではなく、救われた者としてのオチだったように思います。

 明日25日から中町の両親が3階牧師館での生活をスタートします。両親はクリスチャンではありませんが、大事な家族です。旗店建て替え期間のほんの短い時ですが、地上の家族と一緒に過ごせることを楽しみながら、来年の今頃は家族4人でエルサレムでの最期を話せるようになっているのか楽しみです。

 それから10月は私の親戚が静岡で集まることにしたようで、何人かは草深の礼拝に出席する予定です。父の兄弟たちで、1970年4月に祖父が紛争の煽りを受けて憤死して以来、信仰者だった祖母や叔父は躓き、それ以来、祖母がいる前では信仰や教会の話しはタブーでした。それでも戻って来た者もいれば、受洗した者もいます。一時は散らばった兄弟たち。コロナ禍の時に父をはじめ3人が召されたので、祖母の故郷である静岡で偲ぶ会をするのでしょう。そこでどんなエルサレムでの最期の話しが飛び出すのか楽しみです。

 10月29日は佐藤晏(あん)神学生(大学院1年生)を迎えて神学校日礼拝を守ります。何度か草深が神学生を迎えた様子を拝見していますが、衣食住に関わる話よりも、素直に説教の感想などを話しや献身の覚悟を決めるプロセスを聴いてあげてください。どうも拝見していると、人間的な繋がりで会話をしようとして、教会の交わりの基本である部分を置き去りにしているように感じます。恐らくこの部分が解消すれば夏期伝生を迎えても良いと考えています。
 話を聞いて、自分でも口にして確認しあう。これは皆さんがエルサレムの最期を話すようにされていく始まりです。