コラム

再・形成

飯田敏勝

 神学校で教会史の最後の授業での教授の言葉が忘れられません。「キリスト教の歴史は、教会が分裂し、新しく教派を生み出してきたことでもある。その枝分かれにおいてキリストを証ししてきたことも確かだが、神の教会を分裂させてきた罪の歴史でもある」といったものでした。
*    *    *
 使徒言行録に出て来たり、手紙の宛先になっている個々の地名が冠せられた教会があります。無名の、家での集会もありました。それらは自分たちの集まりが教会というだけでなく、世界中のすべての教会が一つの教会だという自己認識をもっていました。
 目下わたしたちの身近に日本基督教団の教会がいくつもあります。その他にローマ・カトリックや聖公会、プロテスタント諸派(ルーテル、新日キ、バプテストなど)があります。こうした教団の区別が初代教会にはなく、一つの公同の教会は理念的なものでなく現実的だったのです。
 しかし、東方教会(正教会)と西方のローマ・カトリック教会とが紀元1054年の東西大分裂によって分かれます。
 更に西方の流れの中、1517年10月31日にルターがヴィッテンベルク城に95箇条の提題を貼り、これが宗教改革の始まりとされます。その後、カルヴァンなどによって、改革派が生まれ、プロテスタント諸派が生まれてきます。
 わたしたちは自らのルーツを覚え、10月最終日曜は宗教改革記念の礼拝として守ります。
*    *    *
 冒頭の言葉のように、枝が分かれたからこそ明らかにできた教理や信仰生活もあります。しかし枝同士で仲違いがあったのも事実で、それは今でも争いの種になりかねませんし、実際なったりもしています。
*    *    *
 金沢の兼六園には夫婦松があり、根が違うアカマツとクロマツとが、宙で幹がくっつき一本の木になります。(初代は枯れて、現在は二代目を育成しているようです。)そうそう起こることではないでしょうが、教会の歴史においても再統合を夢見ることは忘れてはならないと思います。
*    *    *
 「宗教改革」と訳されますが、英語では‘reformation’で再・形成といった意味合いです。決して宗教という精神的(に捉えられがちな)領域に限らず、生活も含め生き方全般が神の言葉によって改革され続けていくことが問われています。
 そのエネルギー源は根から届けられる命の水です。歴史の中で枝分かれした教会が再び融合することは、決して容易ではありません。それでも、共有する根からの神さまの命の水があるものまた確かです。それに生かされて歩むことを忘れてはなりません。