コラム

聖徒の交わりの一端

飯田敏勝

 ローマ神話のキューピッドは、内容が並行するギリシア神話ではエロースと呼ばれます。神々の一種で、弓矢を持ち、愛を司ります。古代ギリシア語のエロースは、必ず生殖の前提となる愛を含意しつつも、神聖視されるものでした。人間同士の愛の一つの形を指す言葉です。
 このエロースと対比しつつ語ったA.ニーグレン『アガペーとエロース』という古典的名著があります。
 初代教会が神の愛をギリシア語で語ろうとしたとき、フィリアーかアガペーを想定しました。哲学を英語でフィロソフィと言いますが、語源は知(ソフィア)を愛する(フィレイン)からきています。一般にフィリアーは親子・兄弟・友人など人間的ながら麗しい愛を語るもので、この語が用いられてもおかしくありませんでした。
 しかし教会は、元々は家族愛を限定的に意味するアガペーを、神の愛を特定する語として用いました。そこには自己犠牲を厭わぬ、無限にして無償の愛が現れ出ます。
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 ただ聖書でアガペーが別の意味で使われている箇所があります。ユダの手紙12節で、あなたがたの「親ぼくの食事」(口語訳や聖書協会共同訳では「愛餐」)です。
 コロナ禍前には教会でよく行われていた会食は、神の愛をも語るアガペーなのです。
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 ラテン語を出して恐縮です(私自身ろくに解っていませんのに)が「レクス・オランディ、レクス・クレデンディ(lex orandi, lex credendi)」という、キリスト教のモットーがあります。直訳は、祈りの法則は信仰の法則。祈りは特に、礼拝や讃美のような信仰の実践のことで、それこそが教理や神学のような信仰の言葉をも形作っていくものです。
 教条主義、ざっくばらんに言えば頭でっかちになって 理屈だけで キリスト教が形成できるわけでなく、神さまが呼び集められた教会すなわち聖徒の交わりを信じねばなりません。
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 愛餐が礼拝に含まれるか否かは微妙なところがあります。
 Ⅰコリント11章に主の晩餐(聖餐)のことが語られています。その中に「空腹の者がいるかと思えば、酔っているものもいる」(21節)とありますが、聖餐それ自体は肉体の腹を満たす食事ではなく、ましてや酔うほど飲むものでもありません。21節での「食事」は、聖礼典の聖餐ではなく、それが行われるときに付随していた愛餐だと考えられます。
 無論上記の一節の記述は悪例ですが、続く22節で「神の教会」をあるべき形に整えるためにこそ、パウロは注意喚起しているのです。
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 愛餐会やバザーなどの中にも、教会を形作る神さまの働きかけがあることの神学的前提を説くと、こんな風になるのではないでしょうか。