コラム

御国が来ますように

飯田敏勝

 2024年度の目標として「御国が来ますように」(聖句「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」マルコ1:15)が、長老会として検討されました。
 2023年度「新しい歌を主に向かって歌え」の理解を深める中、その新しさには終末的要素――簡単に言うなら、間違いなく神さまに出会っていること――が欠かせず、その歌には神の国をあこがれることが必然的に伴うのだと学びました。
そうした中から、続く年度の主題の鍵語として「神の国(=御国)」が定まってきました。
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 しかし近年(翻訳書を読んでも出て来るので日本に限ったことでもなく)、わたしたちの救いである神の国とは、死んだら天国に入れることと同じように考えられているフシがあります。
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 その要素は確かにあり、また、わたしたちが生きている間に世の終わりが来ることもあり得ますが、いわゆる時間的に将来の終末だけが神の国ではありません。
 「神の国はいつ来るのか」との問いに、イエスさまは「実に、神の国はあなたがたの間にある」(ルカ17:21)と答えられました。信仰者たちの間に、到来するものです。それは見える形ではないとしても、神の支配がわたしたちの間に実現してきていることでもあるのです。
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 聖句のマルコによる福音書1章15節は、イエスさまが地上での宣教開始にあたって口になされた言葉です。すなわち、信じる者たちに伝えられたことの要でもあります。
 神の国はイエスさまと一緒に地に確実に達しました。密着していないとしても、信徒において今も接点を持っています。伝道が進展し、更に接点が密になることを祈り求めると共に、一人一人の信徒が改めて自分やその周辺における密度を増していかねばなりません。
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 肉の体は、確かに朽ちます。しかし、朽ちないものをわたしたちは着ます。それは先述のとおり将来にも実現しますが、信じることで、死が最後の敵でなくなることをイエスさまが保証してくださっています(ヨハネ11章、Ⅰコリント15章などを熟読し、丁寧に説き明かされる必要がありましょう)。
 死ですら絶対ではない生き方がわたしたちには到達していて、教会の外からもあこがれをもって見られるはずです。それをもたらす福音は、社会をも変えていく力を有しています。その力を過小評価し、福音を個人的な淡い期待におとしめてはいないでしょうか。
 神の国は観念的なものでなく、わたしたちの現実です。そのダイナミックさを取り戻すため、主題の祈りを唱えていきましょう。