コラム

新しい主の年2024年第一の月

飯田啓子

  草深で迎える2回目の正月は、地震と総会資料用の数字・計算に身震いしたことで始まりました。地震に慣れる自信は全くありませんが、数字・計算にはボチボチ慣れていくだろうと思います。それまでは書記長老の添削が続くでしょうが、忍耐をもってお付き合いください。

 そして苦手な仕事をした休息に役立ったのが韓流ドラマ。特に「グウォン(韓国語で救いの意味)」という名前のデーモンが登場するドラマは面白かった。ストーリー(恋愛ドラマ)よりも登場人物とその設定が面白い。デーモンは人を超越した人物(神)を上司と呼び、救いようのない人々と契約して10年後に地獄に導く。そして登場する人物たち。自分の利益のためには人を殺(あや)める。 肉親を殺し、他の家族を死へと追い詰め、肉親を犯人に仕立てる。自らの手は汚さないが関係を破滅へと変えていく。見ていて、どっちがデーモンなんだろうかと考えさせられました。人を追い詰める存在が悪魔。デーモンは追い詰めることで救い、人は追い詰めることで破滅していく。上司は全て人の選択や決断がその結果を生みだすのだから仕方ないと口にする。自分で止めることが出来ないことから抜け出させる救い。

 もう一つは分区教師会での使徒言行録16章6-10節の開会礼拝。説教者が「人がいなければ伝道どころの話しじゃない」と導入部分で口にして、そこから神の導きによる伝道の御業、教会の使命を確認する。
 聖霊に禁じられる・イエスの霊がそれを許さない・助けてくださいの幻・出発。そして最後は「神がわたしたちを召されているのだ、と確信するに至ったからである」。

 ここでは希望があることを確信する時に動き出す伝道、神様の御業があり、何時(いつ)の間にかそれに巻き込まれる献身者がいることに気が付かされます。神の国の完成のためではなく、神の国の希望を確信したからこその動き。確信・信仰・伝道も神様によって成るという召命と献身、そしてそれこそが救いであることを新しく教えられます。

 『ひたすら主に喜ばれる者でありたい』(Ⅱコリント5:9)。何時も説教担当の月は、与えられたルカ福音書の御言葉の一つが、今月の御言葉となるのですが、今月示されたのは第二コリントの5章でした。天の希望を生きる献身者として地上の教会が育ち、そこに結ばれている信仰者一人一人がその喜びを求めて行う者でありつづけることを祈り続けます。