コラム

祝祷の型

飯田敏勝

 『くさぶか 第21号』の45ページに祝祷の型についての疑問があったので、ちとお答えします。
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 両手を上げない(すなわち片手だけを上げるか、両手とも上げない)というのは、おそらく、聖書に(片方にせよ、両方にせよ)手を置いているのだと思います。
 祝祷の文言は民数6:24~26やⅡコリント13:13をはじめ、聖書に基づく言葉です。聖書に触れ、そこから発せられる言葉であることを示すのでしょう。
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 うろ覚えですが、ドイツでは片手だけを上げる形はしないと聞いたことがあります。悪しき歴史を連想させるからですね。
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 観察者によると腕を伸ばす方向が注目されていますが、大同小異です。肝心なのは、手のひらの向きです。
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 礼拝学の成果として近年、礼拝終盤のあの祈りを〈祝祷〉ではなく、〈祝福〉という言い方にすることがあります。〈祝祷〉だと、人間が祈り求める側面が大いに伴い、〈祝福〉だと、神さまより賜わる意味合いが強くなります。それに合わせて手のひらの向きも、〈祝祷〉だと希求するので上向き、〈祝福〉だとそれを届けるため下向きが相応しいかと考えられています。型との組み合わせは絶対ではありませんが、ボディランゲージ的にそのように伝える要素があるのです。
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 補教師(伝道師)のみならず、信徒が祝祷をしてはいけないという規定はありません。慣例的なものですが、教派的伝統が関わる要素もあるので、軽視すべきではありません。
 説教も(『くさぶか』に書かれていたように)、信徒がする場合には「講話」や「奨励」と称して区別する場があります。
 牧師でも〈祝福〉の型は恐れ多く、〈祝祷〉の型しかしないという人がいます。
いずれも正直な気持ちは分かるのですが、神さまに召され、与えられた務めとの関係で判断すべきでしょう。
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 個人的考えを述べるなら、信徒も〈説教〉はできます。教会学校で育ったわたしは、それによってこそ信仰が養われたことを確信しています。
 礼拝中の〈聖書朗読〉と、〈説教〉そして〈祝福〉は、本質的に変わりありません。どれかに携わるなら、他もなし得るでしょう。なので、信徒も〈祝祷〉ができないとは考えません(が、それは原則的な話で、実際には中々難しいでしょう)。
 風が吹く状況で(野外礼拝やエアコン直撃)、便宜上わたしは聖書に手を置くことはあります。ただ普段は、その教会が礼拝で使用している訳で祝福の箇所を朗読することで、聖書に立っていることを伝えんとしています。