コラム

礼拝の所作

飯田敏勝

 先週のコラムの話を前提とすれば、祝祷の手のひらの向きを片手は上向き、もう片手は下向きにすれば両方の意味合いが表現できていいかも……と思いきや、そうは問屋が卸しません。そんなポーズは阿波踊りのストップモーションにしかならないでしょう。
 両手を揃えてどちらに向けるか、二者択一しなければならない課題です。
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 礼拝には、言語メッセージをやり取りする知的側面だけでなく。身体を動かす側面もあります。時にボディランゲージの要素もあるので、踏まえるべきは踏まえなければなりません。
 讃美歌の前奏でいつ立ち上がるか(前奏が始まった途端か/前奏最後の数節か/歌が始まる直前か)教会によって違いはありますが、このタイミングに大きな意味はありません。
 実際に違うタイミングで立ち上がってしまうと、気恥ずかしい思いをする――人によっては顔から火が出るほど――でしょうが、単なる慣習でしかなく、便宜上の程度の差です。自他共に、ミスったとしても「ドンマイ」とすぐ水に流してください。
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 似たような事例として聖餐の品を、全員に配り終えてから皆で一斉に口に運ぶか、あるいは、配られたら各々口に運ぶか、があります。牧師がパンと盃について信仰的宣言をした後なら、これも程度の差です。Ⅰコリント11:21は愛餐についての注意喚起なので、前者の型を支持する典拠にはし難いものです(直前に聖餐が言及されていますが、21節は明らかに実際に腹を満たす食事について語っているので)。
 聖餐の所作としてまず踏まえるべきは、陪餐者たちが執行者のもとに進み出て受けるか、会衆席に座ったまま配餐者が分けていくか、こそが大きな違いです。これは教派的伝統を表明したり、聖餐理解の質的な差を含んでいます。
 とはいえ、皆で一緒にいただくという素直な思いは看過し難いことも重々承知してはおります。
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 さて、草深の目下の課題として、献金奉仕者がいつ席に戻るのか(献金の祈祷後/祝祷後/後奏後)があります。
 これもまた程度の差であり、基本的な考え方としては、担当する奉仕が終わったのなら祝祷や後奏は他の会衆と同じように席に戻って受ければいいというのが原則です。
 しかし、前に残ることが慣例化してしまっていて、自分の番のときにそれを破るのは難しい状態に草深では目下なってしまっていますね。
 安心して、献金が終わったらお戻りください。
 とはいえ、その後まで前に残っていたとしても、牧師はもとより神さまも温かい目で見守っていますよ。