コラム

聖書からすくいとる

飯田敏勝

 旧ツイッター(とイチイチ説明するのも煩わしいですが、とおりがよくないので)Xに、批評家・随筆家の若松英輔さんの投稿です。
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 意味をつかむというけれど、つかめる意味は語意だろう。言葉にならない意味は、「つかむ」のではなく、「すくいとる」あるいは「くみとる」のではないだろうか。意味は水のようなものだと感じることがある。魂の乾きさえも癒すことがあるからだ。
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 牧師が教えられるのも〈語意〉までです。単語の意味だけでなく、語が連なった句や文や文章について、文脈に沿ってつかみ得る〈意味〉を語らんと苦心しています。
 あるいは、もっと大きなまとまりとして、聖書全体やその中のカテゴリー(モーセ五書だとか福音書だとか) や、各書簡について、大まかにはなりますが説明はしようとしています。
 しかし、いずれも〈人言性〉の側面しか語り得ません。聖書の〈神言性〉の要素は、皆さん一人一人が〈すくいとる/くみとる〉しかありません。牧師の言葉や聖書の文字を通して、その背後で、神さまが霊において語り掛けておられる〈ことば〉を、そこに込められている御心を、祈りの内に聞き取らねばなりません。
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 文字だけではなく、絵画や音楽、建築などの芸術を通して教会は平信徒に福音を届けてきました。
 しかしプロテスタントとしては日常の言語でいい(ローマ・カトリックのようにわざわざラテン語でなくてもいい)ので、自分で、言葉で、神さまと関わり合うのです。
 これは聞くときだけでなく、応えるときもそうです。祈りや讃美も、声に出すことが大切です。
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 聖書は〈神の言葉〉の性質と、〈人の言葉〉の性質とを併せ持っています。少なくとも正統的な信仰者はそう受け止めます。
〈人言性〉において難しい要素も多々あることは認めます。各人の読解力はもとより、人生経験に応じて適宜説明を加えていく必要も牧師として感じます。
 ただ〈神言性〉において真理を聞き取れるかどうかは、いかなる人間的レベルとは別に、祈りと共に〈すくいとる/くみとる〉かどうかでしょう。神さま御自身が超越的に関わってこられることです。
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 余談で「語意」という単語が出て来ましたが、同音異義語に「語彙」があります。その「彙」という漢字は他にあまり使われることがないなと思い、試しに漢和辞典を調べたら、ハリネズミの意味がありました。
急にこの「彙」の字に好感を抱きました。