コラム

ペンテコステを祝うため

飯田敏勝

 イースターから七週後(今年は5月19日(日))に、ペンテコステを迎えます。その十日前に〈昇天日〉があるのも、聖書に基づき(使徒1:3,9)教会暦で定められています。
 ペンテコステと同義の「五旬祭」(使徒2:1)は、新約の言い方で、ユダヤ教の三大祭りの一つ(他は「過越祭」と「仮庵祭」)です。旧約では「刈り入れの祭り」(出エジプト23:16)や「七週祭」(出エジプト34:22.参照、レビ23:15~21)と呼ばれていました。
 キリスト教において大切な祭りとなり、独自の要素が加わったのは、この日に聖霊が降り、弟子たちが宣教を始めたからです。
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 父・子・聖霊なる神さまは三位一体と説明されますが、他の位格に比べ、聖霊が分かりにくいという声をよく聞きます。そもそも、一般的な意味で霊は実体がないですから、把握しにくいのも当然でしょう。
 人となられた〈子〉なる神イエス・キリストはもとより、〈父〉なる神も、人間と対話をしています。姿が見えないときがあるとしても、向かい合える存在として、わたしたちが把握する手立てが普通にあるのです。
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 文通やメールなど、文字だけで交流していても、相手の特徴をつかむこともできるし、場合によっては惚れた腫れたと、関係が深まることもあります。人格的交流は言葉だけでも確かにできるのです。
 しかし〈聖霊〉は、実体的存在がないことに加え、言葉を発しません。
 「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」(Ⅰコリント12:3)とありますが、語るのは信仰者の口ですね。そして、この告白によってこそ人は救われる(ローマ10:9)のです。
 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの中に住んでいることを知らないのですか」(Ⅰコリント3:16)とあるように、聖霊は信仰者に内在するようにして、わたしたちを導くのです。
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 ヨセフ物語(創世37~50章)やエステル記のように、神さまが直接登場してこずとも、この世の出来事の背後で見えない御手をもって守り導くこともあります。
 聖霊もそのような力として働かれる側面は多々ありますが、信仰者自身を整える独自な、この位格としての働きもあります。わたしたちが神さまに聞き従おうとするとき、この聖霊なしに聞くことも、従うこともできません。
 それゆえ、把握しにくい面はあるとしても、一番身近な神さまということもできます。聖霊によってこそ、この自分も〈聖〉に向かっていくことができる光栄を、体でも心でも覚えることができるのです。