コラム

礼拝の中の信仰告白

飯田敏勝

 草深の主日礼拝では目下、通常「使徒信条」を告白し、聖餐執行の際には「日本基督教団信仰告白」を唱えています。
 ま、そのため今年は、棕櫚の主日・イースター・4月第一、と三週連続で教団信仰告白になりました。
 これをどう考えるか、です。
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 青葉の伝道集会にいらっしゃる本城仰太先生(東京神学大学准教授、中渋谷教会牧師)が、著書『使徒信条の歴史』で受洗の際の告白として「使徒信条」が発展してきたことを詳説しています。つまり聖礼典執行の際にこそ、相応しいものです。
 「使徒信条」のほかに古代に制定された〈基本信条〉は、神さまのことを(神秘を神秘として保ちながら、きちんと)言い表し、頌栄的性質の強いものです。礼拝で用いられるものです。
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 一方、宗教改革期以後(近代以降)に制定された諸々の〈信仰告白〉は、自分たちがどういう教会であるのかを言い表します。プロテスタントとしての教理を説いた「ハイデルベルク信仰問答」は触れる機会も多いですし、イギリス生まれの「ウェストミンスター信仰基準」は信仰生活全般について述べます。
 これらは文字数も多く、実際に口にしたら何時間もかかることになります。つまり、礼拝内で朗読することを想定はしていないものです。
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 「日本基督教団信仰告白」も、(少なくとも前文の部分は)教理を説くという性質になっています。ただ、分量的に少ない簡易なものなので、実際には礼拝内で唱えられることも多くありますし、使徒信条を内包している構造もそうした用いられ方を積極的に支持します。
 とはいえ教理史を踏まえた原則的なことを言えば、先に挙げた二種のうち後者の流れの上にあります。それでも、教団自体が信仰告白を大切にする教会になることを目指すとき、実際に礼拝内で唱えることも大いに意義はあります。
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 ですから原則的には、通常は「教団信仰告白」、聖礼典執行の際には「使徒信条」というのが、筋道だっているかと考えます。
 聖礼典によって、実際には教団という目にも見える教会に属することを確認しますが、教団を通して空間的に世界中の教会と、また時間的に代々の教会と共に普遍的で信ずべき、ひとつの・聖なる・公同の・使徒的な教会(この形容は21-93 -4-2ニケア信条を参照)に連なるのです。
 とはいえ、朗読の長さ(正直なところわずらわしさ)も考慮すると、「教団信仰告白」は第一日曜だけ、という設定が妥当かと思います。