コラム

聖餐のあるなし

飯田敏勝

 先週のコラムとの関連で、わたしたちの礼拝には、聖餐のある回とない回とがあります。
 ローマ・カトリック教会の礼拝では、説教がないことはあっても、聖体拝領(=聖餐)がないことは考えられません。
 逆にプロテスタントの基本姿勢としては、聖餐は守らなければならないが、毎回の礼拝である必要はない、というものです。
*    *    *
 プロテスタント黎明期には、聖餐は年に四回だったそうです。すると信徒は、「そんなに多く受けるの?」と驚いたそうです。
 カトリックでは聖職者たちは日毎週毎にあずかれるとしても、一般の信徒は年に一回(告解の後に)パンだけを受ければ十分というスタンスでしたから。
*    *    *
 現在のプロテスタント教会は、月イチ+α(三大祝日など)に陪餐というスタイルが多数派でしょう。となると聖餐を伴わない礼拝の方が回数的には多いのですが、教会として絶えず聖餐のある礼拝のことを想定しておかねばなりません。
 コロナ禍で実際に集まって礼拝を守れないとき、多くの教会でオンラインでの形式が検討されました。しかし、聖餐を伴う礼拝、ひいては本当に緊急の場合の洗礼の仕方までを設定しておかなければ、教会が供する礼拝として不十分なわけです。
 もちろん原則に基づいて毎回の礼拝である必要はないので、緊急事態下のみ聖餐を伴わない礼拝をオンライン形式で行う、という主張も認められ得るものでしょう。
*    *    *
 しかし回数が多いやり方や、現状
行っている仕方に慣れ親しみ、そうではないやり方の真意を図り損ねることがままあります。
 それこそ洗礼は一生に一度ですが、そのかけがえのない意義は絶えず確認すべきです。肉なる人間の思考や言動がいかに御粗末であったとしても、神さまとのつながりは、洗礼によってこそ見えない証印を受けて、保証されるものです(参照、ローマ6:3~5,ガラテヤ3:26~27)。
*    *    *
 信徒はまず「現住陪餐会員」と呼ば
れるように、聖餐に与ることが基本的な姿勢です。
 先週のコラムとの関連で、聖餐のあるなしで本当に相応しい信仰告白は何かということ、簡単に結論は出せませんが、慣例的にコレでいいんじゃない?だけではなく、歴史や教理を踏まえて考察することも大事です。
 さもないと、思い込みや恣意が入り込んできます。確信を伴うためには、〈知解を求める信仰〉を目指す姿勢が大切です。