コラム
アメリカでの礼拝出席から
飯田敏勝
アメリカ滞在中に礼拝出席したRolling Bay Presbyterian Churchは印象深いものでした。
姉の暮らすベインブリッジ島は人口2万5千人ほどですが、そこにカトリック、ルター派、プロテスタント主流各派の教会を十ほど見かけました。その中の長老主義教会です。
外国で教会生活をするとき、単に日本人が集まり日本語が通じるかよりも、教派的に馴染んでいる教会に行くのがいいといった意見も聞きます。それを、僅かな滞在期間でしたが、実感させられもしました。
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礼拝のスタイルは多種多様になってきています。特にアメリカでは、どんな教派どんな礼拝かによって集まる人も変わってきます。町内会などがない代わり、コミュニティ形成に教会が大いに関わると聞き及んでいます。
わたし自身は割に、伝統的なものから革新的なものまで、多様な礼拝に対応の幅があるつもりでいます。ただ、それぞれのスタイルが何を目指してそうしているのかは確認しておきたいのです。そのとき伝統を同じくすることは、言わずもがなで対応しやすいのです。
今回の長老主義教会の式順を追う中で、罪の告白をした上で礼拝の中心の御言葉に触れる流れがよく分かります。礼拝全体が最後の頌栄に向かって、三位一体の神さまを讃美していることが、よくよく分かります。
何より聖書を丁寧に説き明かすメッセージや、参列者が真摯に祈る姿を目の当たりにすることで、同じ神さまを信じる仲間がいることを言語・人種・文化の違いを超えて実感しました。
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会堂にはプロジェクターで讃美歌の歌詞や、皆で唱えるべき祈りや信仰告白の文言が投影されています。
意外だったのは、それを読むわたしの声が大きかった――と、隣に座った日本人の方から言われたことです。彼女自身も英語で讃美歌を歌うことには馴染んでいます。しかし英語では、信仰告白はあまり口をついて出ないというのですね。
ま、牧師として信仰告白の礼拝中の意味合いや、硬い文章ながら構造も割に見えているからだと思います。英語が堪能だからというわけでは決してありません。
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休暇中といえども牧師が礼拝出席するときには、その教会に少し気を遣います。ですが、リベラルな地域の外国だと、身軽に一参列者となれました。何気ないことですが、自転車に乗って教会に向かうという行程すら、牧師には昔懐かしいものです。
しかしそのようにして礼拝体験する中、思いがけず一人の信仰者としての素の自分の在り様を確認させられた気がします。