コラム

聖書通読の実践のために

飯田敏勝

 割と色々なことに鷹揚なつもりですが、このことについてはわたしは絶対に一歩も引きません。すなわち、「聖書は神の言葉である」ことはわたしたちの教会の信仰です。これを揺るがしては、教会は成り立ちません。
 それゆえ、プロテスタント教会では信仰者一人一人が聖書を読むことを重視しています。
 ただ、聖書は人の言葉としての側面もあるので、実際には読むのが難しいことは百も承知しています。
*    *    *
 本を読むこと、活字を追うことが大好きな人は、たとえ訳(わけ)が分からなくても頁をめくれます。聖書が大切だと言われたら通読ができ、読んだ内容を牧師に問うてくる方もいるにはいますが、そうしたタイプは、正直、信徒の一割にも満たないかと思います。
 ちょっとした長編小説なら、聖書くらいの厚さの本はいくらでもありますし、それを読み通すことは「為せば成る」です。
 ただ聖書は、人の言葉としては、アンソロジー(異なった作者の作品集)の側面があります。確かに冒頭にも掲げた信仰的宣言は聖書に一貫していますが、それを実際の文字面から聞き取ることは、中々難しいものです。
 いや、心に響く章句も実際に多くあります。ですが全体を素読していると、そうとばかり思えない部分の方が圧倒的に多いというのが実態かと思うのです。
*    *    *
 先週のコラムの解説は、ほぼ『はじめての人のための聖書 ダイジェスト・バイブル』(いのちのことば社、2018年)からの引用です。
 この本には読むべき箇所が抜き書きされています。それらを基に、ラ
ジオ体操カード風の、聖書通読カードを作りました。
 希望者はそれを持ち帰り、家で指定された箇所を読んできてください。
 日曜の主日礼拝の前(9時10~40分)、水曜の祈祷会の後(だいたい11時30分まで)、祈祷会の前(18時15~45分)に、牧師がハンコを用意して待っています。該当覧に印を押し、翌週は次の箇所をまたお読みください。
 牧師が十分対応できないときのため、質問カードも備えておきます。
 大切だと分かっていても、一人で頑張っただけで聖書が読み通せるなら苦労しません。人参の吊り下げ具合は調整します。同じ志の仲間と共に、牛歩でも前向きに進んでいきましょう。
*    *    *
 なお、「聖書は神の言葉である」ことの実践の最たるものは、礼拝がそれに基づいて行われることです。そう信頼を寄せてくれることが、「聖書は神の言葉である」を受けとめる最前にして最善のことであります。