コラム
旧約を大切にしなければならないという話
飯田敏勝
長老読書会もそうですが、新たに始めた聖書通読会でも楽しいのは、脱線での懇談ですね。もちろんテキストを読む上で理解を深める正統的な意見も、ですけど。
ただ自由な懇談をしている内に、その人となりが見えてくることが多々ありますし、思いもよらず思索が深まることも時に起こります。
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雑談の中ちょっと意外だったのは、草深の礼拝でこれまで旧約をあまり扱っていなかったという話です。歴任牧師たちが、新約を一箇所だけ取り上げて説教することが多かった、というのです。
目下わたしは教団の聖書日課を基に、旧約と新約の箇所を朗読してもらっています。何度か書いていますが、聖書は旧約と新約でこそ聖書になりますし、教団信仰告白はそれをうたうことから始まっています。礼拝での朗読箇所がこうでなければいけないのではありませんが、聖書信仰を培うためのわたしの一つの方針です。
少なくとも、旧約をメインにした説教に覚えがないというのは、羊に対する餌の偏りを感じます。
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プロテスタントがカトリックに対して、キリスト教がユダヤ教に対して、相違点の方が強調されすぎだと日々感じています。むしろ、共通項のほうが多いはずなんです。身近な比較対象だから仕方ないのも分かるのですが、より広い視野で見たときに異なる様相に気づけるでしょう。
キリスト教界は、東方と西方に大きく分かれます。前者は正教会と(ハリストス正教会、東方正教会などとも)呼ばれ、国ごとに組織が造られます。イコンという聖画が有名ですが、それを含め礼拝の仕方や、教えの強調点を見比べると、わたしたちとだいぶ違います(そうだとしても、同じ救い主を信じる共通項も多いんですけれど)。東方を知ると、同じ西方の中のローマ・カトリックとプロテスタント諸派の違いがかわいく見えてきます。
ユダヤ教の中からキリスト教が生まれてきたのは事実で、多くの遺産の上にわたしたちは立っています。旧約と新約の間には、断続性と連続性とがあります。書物の宗教ということ、それに基づく礼拝をしていることなどは、諸宗教と見比べたときに明らかな点でしょう。
僅かな違いを大きな違いとするのも人間の常で、共通項より相違点に関心が行くのも分かりますが、争い合う罪の原点にもなりかねません。
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教会がなぜ旧約を大切にしなければならないかといえば、初代教会が旧約を基に説教をし、伝道をしていたからです。使徒言行録を読めば一目瞭然です。また、ナチス・ドイツで起こった「積極的キリスト教」は旧約を否定しました。その過ちを繰り返すことは、絶対にあってはなりません。