コラム

ホモロギア

飯田敏勝

 歩くペースが速い人と遅い人がいるとします。一定の距離を歩いたとき、当然、速い人が先に着いていて、後から遅い人が着きます。遅い人が着いた途端に早い人がまた歩き出したら、差は埋まりません。むしろ、置いてけぼりを食らうことが繰り返されます。
 歩くペースは人それぞれですから、それを無理に変える必要はありません。でも、配慮は必要です。共に立ち止まり、次の区間を歩き続けられるかどうか確認の上、それぞれ歩み出せばいいのです。
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 敏勝・啓子両牧師の、主の祈り・使徒信条・教団信仰告白のテンポが遅いとしきりに言われますが、わたしとしては上記のような観点から、敢えてしていることです。
 牧会で個別の訪問をしていると、色々な人に出会います。共に主の祈りをささげる機会も多々あります。
 胸を患い呼吸も苦しい中、振り絞るように必死に唱える方。記憶していたはずの文言を思い出せず、こちらが指さす文字を追いながら唱える方。主の祈りを覚えたての発話もたどたどしい二歳児。
 礼拝に実際に来ることが叶わなくても、そうした方々と一緒に主日礼拝の主の祈りは唱えたいのです。  
 また実際、上記のような方々が来た場合、ペースを合わせる必要はあるでしょう。
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 旧ジャニーズのようなグループで、歌うパートを分けて歌うなら、ブレスの間がない曲が生まれることもあります。しかし、長い文言を口にする場合、息継ぎは不可欠です。
 口調が早い人は、遅い人が到着するまで待つことはできます。しかし、遅い人が息継ぎをする間を待つことまでは配慮しません。到着した途端、 足早に進み出してしまいます。結果、全体が前倒しに早い方に引っ張られていってしまうのです。
 司式する牧師が次の一句や一文の冒頭部を発話するまで待ってもらえたなら、皆で一緒に歩み続けることになろうかと思います。
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 司式は群れ全体を配慮してなされます。司式者を含めて特定のだれかのペースに合わせろというのではありません。見えるメンバーだけでなく、群れのすべての構成員まで含め、その声を合わせることに配慮しています。
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 主の祈りの「我ら」の「ら」だけで説教したことがあります。
 ただ唱えるというだけでなく、その意味を考えたり、群れ全体を見渡す機会として、教会が共に告白する言葉を受けとめてくだされば幸甚です。(信仰告白を意味する「ホモロギア」は、元のギリシア語で同じことを口にするといった表現です。)