コラム

教師検定委員のために

飯田敏勝

 祈祷会では祈ってもらいたいその週の「静岡草深教会」「中静分区」「東海教区」「日本基督教団」の課題を挙げています。先週、教団においては「教師検定委員のために」祈ってほしいと勧めました。
 先月の長老会報告にありましたが、わたしがそれに任命されましたので。
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 自分が携わる務めのために祈ってほしいというのはおこがましい気もしますが、教団にとって重要な務めです。試験を施し、だれが牧師になるかを決めるのですから。
 牧師になるためには、当の本人が神さま御自身からの召命を受けねばなりません。その内的召命と共に、試験に合格するなどの外的召命をも通らねばなりません。その試験を行うということは、神の務めの代行者として畏れ多いこと限りありません。また、その結果は、志願者の人生や赴任教会の計画を狂わすこともあります。
 それでも、なりたいと主張した者が誰しも牧師になれるのでは、教会が人の手に落ちます。
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 もちろん、委員が恣意的に選ぶことは許されません。選抜の基準を明確にせねばなりませんが、これは教団が信仰告白を遵守すると共に、教師検定試験においては法源に通じキリスト教神学の各分野に通じていなければなりません。また委員の責任として、設問の意図と(開示しませんが)合否判断理由とが、きちんと説明できるような配慮が不可欠です。
 人間ですから、(試験を受ける側にも、施す側にも)好き嫌いや得手不得手はあります。それでも、牧師という務めに相応しい教養と、面接などにおいて人格を含めた総合的判断が、試験自体において明らかにされねばなりません。
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 わたしにも好き嫌いや得手不得手があります。綺麗事に聞こえるかもしれませんが、嫌いな教会員は歴任教会においていませんでした。それでも、わたしに躓いて他の教会に転籍した教会員はいます。一方、嫌いな牧師はいくらでもいます。個人的な感情ではなく、牧会の姿勢や、神学を問うたときにどうしても相容れないのです。嫌いというより、許せないのです。
 しかし、それはわたしが裁くことではありません。本当に教団の教師としてあるまじき言動を正すことなら、牧師の戒規は教団の教師委員会が執行しますし、信仰的判断は信仰職制委員会が担います。その最終判断が下されるまで対話を続けねばなりません。
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 けれども教師検定委員は、試験という僅かな時間と限られた意見交換によって、牧師としての相応しさを判断せねばなりません。検定委員が間違えることも皆無ではないでしょう。
 それでも、教団という教会が機能するため、真剣勝負でこの務めには向かい合わねばならないのです。