コラム
「秋季教師検定試験を終えて」

飯田敏勝
既にお伝えしているとおり、わたしは教団の第43回総会期教師検定委員を仰せつかっています。つまり、牧師になるための試験を行うのです。
委員になって初の試験が、先月実施されました。予め説教などの提出課題がなされていて、9月半ばに行われたのは筆記試験と面接です。直ちにそれらの採点と総合的合否判定もなされます。
委員に選出され、一段階一段階作業が進められるにつれ、わたしの口からはため息が漏れます。家族はよく見聞きしていますが、あきれるほど漏れます。
教団の委員はこれまでも担ってきましたが、この教師検定委員は 別格です。明らかな神の働きの代行をしているのですから。
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牧師への召命は、当の本人が神さまから直接聞く内的な召命があります。何か出来事を通してその旨が伝えられたり、祈りの内にそう確信しただとか、御声を聞く道は人それぞれです。ですが、まずは神さまから直接その人への内的召命がなければなりません。
ただ、それだけでは思い込みなどの間違いも起こりかねません。内的召命だけでなく、試験をパスするという外的召命を併せて、神さまの召しに応える道が拓けるのです。
教師検定委員会が担うのは、あくまでも後者のみです。
漠然と「牧師になりたい」では済まされません。説教と聖礼典に仕えるのは大前提ですが、具体的に日本 基督教団の牧師にふさわしく教憲・教規や、宗教法人の代表役員にもなるので宗教法人法などの試験が、聖書や教理の試験だけでなく、行われます。
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実際に試験に携わってみると、当の受験者本人のことは、あまりに気になりませんでした。むしろ、その背後にいる教会員たちが、どのような状態かが気になります。また、同じ務めに立つ者としてチームプレイができるかどうかが気になります。
神さまが人を用いる道は多様です。牧師は教会に欠かせない職務です。個人的関心でなるのではなく、教会に仕えるために、その身を、時間を、生涯を献げねばなりません。知識ではなく、教会に仕えるための神学が、教師検定試験でも問われています。その狙いがきちんと果たせるよう、委員の務めが全うできればと願うばかりです。

