コラム

「コーラム・デオ⑶」

牧師 飯田敏勝

 前回⑵において語ったように人は、社会的状況において見せる顔が違います。それらを単に総合すれば、「ありのまま」の自分になるのでありません。コーラム・デオ(=神の前)でこそ本当の自分になれるのです。
 神さまの御前に出るというのは、自明に犯した罪も、隠されていた悪しき思いも、すべてが明らかにされる裁きの場に出るようなものです。
 しかし、弁護者としてのイエス・キリストがおられます(Ⅰヨハネ2:1)。この御方に執り成されて、わたしたちは無罪放免されます。その赤ん坊のような状態と、それから再び新たに生きる成長とが、ありのままの自分です。
 福音を信じるなら、このような新しい命を得るはずなのです。福音に立って「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」(フィリピ3:13~14)のです。
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 ですが現実的には、古い生き方に後ろ髪を引かれているのが大半の信仰者であろうかとも思います。
 和解の任務を請け負ったパウロは堂々と、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)と言い切ります。
 キリストが成し遂げられた救いの御業は、単に心を清らかにすることを目指すのではありません。悪が身辺に満ちていたとしても、人間を救うことからはじまり世界を新しくしていくのです。創造の際の人間の務め(創世1:28,2:15)は再創造の際にも委ねられているのです。
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 こうした神さまの、救いと再創造の御計画に召された人々が、教会となるのです。その人々は、単に教会に来るからでなく、言葉によって刷新されます。聖書の言葉が、単に書物の中に閉じこもっているのでなく、礼拝で御心を遺憾なく発揮するとき、わたしたちはコーラム・デオにいるのだ――と、信じている教派なのです。
 福音はわたしたち一人一人をもっと生き生きとさせることができます。聖書の言葉にはその力があり、それは神さまの御前にわたしたちを連れ行くからです。(終)