コラム

「3本の十字架」

牧師 飯田啓子

 2月8日(日)夕方に雪が降りました。野暮用があって清水区方面を走っていたのですが、久々に雨雲ではなく雪雲を発見。どんよりと暗くて重い雪雲が急ピッチで広がり、やがて落ちて来る雪の結晶。その明暗コントラストを不思議に思う時が久々に与えられました。教会の植え込みにもうっすらと積もりました。それでも夕拝が終わった頃には溶けていて、水道管破裂の心配もしないまま、積もらない雪はツマラナイ!と、雪は嫌いですが雪道ドライブ大好きな血が騒ぎました。気温のアップダウンの激しさが身体に響きます。どうぞご自愛ください。
 どんより暗い雪雲に再会して、何故か小学生の頃に教会学校の先生がしてくれた大好きな話 “3本の十字架”を思い出しました。皆さんもご存じでしょうか?
 主イエスがゴルゴダの丘で十字架に磔にされました。その左右には二人の犯罪者がいて同じように磔にされます。その一人は(向かって左側)「やいイエス!お前がメシアなら、俺たちを助けろ」と怒鳴り声をあげて、反省するよりも恨みつらみを爆発させる。もう一人は(向かって右側)「止めろよ。俺たちは自分の悪さの報いを受けているけど、この人(=イエス様)は何も悪いことはしていないのに、磔にされている。でも静かに受け入れているじゃないか」と相手をたしなめる。そして「あなたが目を開けた暁には、自分のことを思い出してください」と願う。
 やがて三人は息を引き取る。罵った人はこの世に絡みつかれたままで、たしなめた人は主イエスに結び合わされる。そうやって“世”という字が出来た。イエス様の十字架の時から世という字が出来た。おしまい。
 こんな内容で、小さいながらも十字架の意味やキリストに結ばれる事などを考えさせられました。重苦しい世の中に暮していても、私たちは主イエスと結び合わされています。世界や世間と結託しないで、インマヌエルの恵み、贖いの中に入れられていることを自分自身に刻み、言い聞かせながら生きて行くことが出来ます。そして「世の中と結びつきそうな私がここにいます。主よ憐れんでください。助けてください」と叫ぶことがゆるされています。