ハイデルベルク信仰問答

第一回 「ただ一つの慰め」

問1 「生きるときにも、死ぬときにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」
答 「それは、わたしが自分自身のものではなく…真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」

ハイデルベルク信仰問答は、このような言葉で始められています。この最初の言葉のゆえに、この信仰問答は、「慰めの信仰問答」と呼ばれるようになりました。今でも、世界中で多くの人びとに愛読されています。
 「生きるときも、死ぬときも」とは、ずいぶん大げさに聞こえます。でも決して大げさではないと思います。なぜなら、「生きることと死ぬこと」は、すべての人がかならず経験するからです。逃げも隠れもできません。わたしたちの悩みや苦しみのすべては、「生きること」と「死ぬこと」をめぐって出てきます。あらゆる人びと、どの時代、どの国の人たちも、決して避けて通ることのできない、大切な問いなのです。
「生きるときも死ぬときも」。もしこの言葉がなければ、どうでしょう? 「あなたにとって一番の慰めは何ですか?」と問うているだけだったら、いろいろな答えが、人それぞれに出てくるでしょう。
 洗礼を受けたいという方がいらっしゃると、必ずこの信仰問答を一緒に学びました。問1を始めるとき、必ずこう問いかけます。「なんでもいいので、あなたにとって今一番の慰めになっていることを教えてください。」 面白い答えがたくさん返ってきます。特に若い方たち、20代の女性や女子高校生の方たちからは、「お友達とのおしゃべり(しかも時間は無制限!)」、「仕事を終えて、家に帰って、食事を済ませてから、ゆっくりとお風呂に浸かっているとき」、「一人でぼーっとしてるその時」とか。「自分へのご褒美に、大好きな食べ物、おいしいケーキやちょっと高級なアイスクリームを、ほおばっているとき」など。一つどころか、あとからあとからいくつでも「慰め」が出てきます。
 ところがそう答えてもらったすぐあとで、続けてこう質問します。「なるほど、たくさんの慰めがあってよかったですね。でも、この信仰問答は、生きるときも死ぬときにも、と聞いています。どうですか?」 こう投げかけたとたん、口数が少なくなります。そしてどんな人も、-若い人に限らず、老若男女だれもが、ほぼ同じことを口にします。「う~ん、むずかしいですね。そもそも死ぬときに慰めなんてあるのでしょうか?」 そうなのです。わたしたちが、それなりに元気で「生きているとき」には、たくさんの慰めや励まし、楽しみがあると思っています。家族との団らん、仲のよい友達と過ごす時間、子育てや孫の世話、やりがいある仕事、仕事をリタイアした後も「生きがい」がある、心ゆるせる友との時間、あるいは趣味に没頭できる時と場など。それなりに健康で、まわりの環境も整い、平和に暮らしていられる場合には、「一つ」どころか、たくさんの「慰め」に包まれている気がします。
 ところがです。「生きる時も死ぬときも」となると話は変わってきます。そもそも死にゆくときに私を慰めてくれるものなど、あるのだろうか? ありはしない。そんなもの、あるわけがない。そこからたどっていくと、実はこれまで「ある」と思ってきた大小の「慰め」が、慰めとはならないことに気づき始めます。「生きること」に困難を覚えたとき、本当に私の支えとなり、慰めになるものがあるのか。いよいよ「死ぬとき」を思うと、いったいわたしを慰め、支えてきたものは何なのか? わからない。答えがみつからない。そういう自分に気づきます。 このことに気づいたとき、信仰問答が語る言葉が、わたしたちの胸に迫ってきます。
「生きるときも死ぬ時も、ただ一つの慰め。それはわたしがわたし自身のものではなく…真実な救い主イエス・キリストのものであることです」。救い主を信じて洗礼を受けた者は、すでにキリストのものとされています。これからも、キリストのものであり続けます。キリストのもの、キリストを通して神のものとされて生きる。ここに本当の慰めがあります。「世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです。」(コリント一3章22~23節)
 なぜならキリストが、「ご自身の尊い血をもって、わたしをすべての罪から完全に」贖い、「悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださったからです」。
 このように、キリストにある慰めは、わたしたちが何者なのか、誰のものなのか、をはっきりさせます。
 何げなく、わたしたちは、自分は自分のものだ、と思っています。自分の人生も自分の命も「わたし」のもの、だから自分の好きにしていいではないか。何が悪いのか。そう思っています。でも聖書はそうは言いません。天地創造のとき、神はご自分のものとして、この世界、そしてわれわれ人間を造り、命を与えてくださいました。人は皆、「神にかたどって、神の似姿」に造られた、神の子どもです。われわれは自分のものではない。神から生まれた、神のものです。神の子どもとして、永遠の幸いの内を、神と共に、神をほめたたえて生きるはずでした。天の父とのうるわしい交わりが、とこしえに続くはずだったのです。
 ところが最初の人間アダムとエバが罪に堕ち、神様との親しい交わりをわたしたちは、失いました。決定的な神との断絶の中に今もいます。これがあらゆる不幸、苦しみと痛みの原因です。
神との断絶状態からわたしたちを救い出すため、独り子なる神キリストが、わたしたちの世界に遣わされました。われらを神のもとへ連れ戻すためです。キリストの十字架の犠牲によって、わたしたちは、キリストの手で取り戻され、もういちど神のものとしていただいたのです。これが、聖書の語るただ一つの慰め、生きるときも死ぬときも、決して揺らぐことのない確かな慰めです。順風のときも逆境のときも、災いや試練や、争いの中に放り込まれても、決して奪われることのない「慰め」がここにあります。このわたしがイエス・キリストのものとされた喜び、そして慰めです。 「慰め」という言葉はラテン語では、「微動だにしない」、「力強い」、「難攻不落の」といった意味があるそうです。キリストの中にいるとき、わたしたちはどんな嵐が来ても揺らぐことがない。どんなに追い詰められても、失望する必要はない。それほど確かな砦の中に、主の手によって守られています。

 このあと信仰問答はこう述べています。「天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一筋も落ちることがないほどに」、わたしたちは父なる神の手で守られています。
 また「…聖霊により、永遠の命を保証し、今からのちこの方のために生きることを心から喜び それにふさわしくなれるよう、(聖霊なる神がわたしを)整えてもくださるのです」。
 キリスト、父なる神そして聖霊という、三位一体の神への信仰が、喜びと信頼をもって高らかに歌い上げられています。
 キリストを十字架につけてまで、わたしたちを神のものとして取り戻そうとされたのが、わたしたちの天の父です。しかしわたしたちは、赦された今も、罪に揺さぶられ、信仰が揺らぎ、とても「イエス・キリストのもの」と胸を張って言えない。そういう弱さを抱えるわたしたちを、聖霊なる神が、責任をもって、キリストのもの、すなわちクリスチャンとしてふさわしくなれるよう、導いてくださいます。キリストのものとされたわたしたちに与えられた特権です。

 キリスト信者のことを「キリスト者」とか「クリスチャン」といいます。教会のことも、英語ではチャーチまたはクリスチャン・チャーチといいます。このクリスチャンという呼び名こそ、「キリストのもの」という言い方そのものです。新約聖書の使徒言行録11章26節に出てきます。「このアンティオキアで、弟子たちが初めてキリスト者(=クリスチャン)と呼ばれるようになった」。はじめ世間の人々は、悪口でそう呼んだようです。信者がキリスト、キリストと口にするので、からかって言ったのです。「あいつらキリスト野郎だ!」 しかしこの軽蔑した言い方を、弟子たちは喜んで受け入れました。「クリスチャン=キリストのもの」という呼び名を、ありがたく受け入れました。
天の父である神が、キリストの血による代価を払って、わたしたちを罪から買い戻してくださいました。わたしたちはもはや、わたし自身のものではありません。どんなに罪深くとも、もう悪魔のものでもありません。真実な救い主イエス・キリストのものです。だから、この方と共に生きる自由があるのです。罪赦されたわたしたちには自由があります。だれにも気兼ねせずに、神の子どもとされた喜び、そして慰めを、神に感謝しほめたたえ礼拝する。そのような自由へと、キリストによって解放されました。わたしたちは、キリストのもの。キリストによって新しく造られた者、メイド・イン・キリスト(made in Christ)の者たちです。それが教会です。キリストにしっかりと接ぎ木をされて、神の民とされ、来るべき神の国と永遠の命を受け継ぎます。これこそが、ただ一つの慰めです。何があっても決して「微動だにしない」、「力強い」、「難攻不落の」砦であるキリスト。すべての慰めの源であるイエス・キリストにしっかりと結ばれて、信仰の命を生き抜きましょう。
 「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8章38~39)
このような生き方、死に方を、キリストの神が可能にしてくださることでしょう。

(説教者:堀地正弘牧師)