主日礼拝説教

ヨベルの年

(レビ記25章1~17節、マタイによる福音書12章7~8節)

「ヨベルの年」

レビ25章は、主がモーセに七年毎の安息の年と五〇年に一度のヨベルの年についてお語りになった場面です。安息と言えば週に一度、七日目の安息日を思い出される方も多いと思います。イスラエルには、七年目の安息の年というものがあったのです。 「あなたたちがわたしの与える土地に入ったならば、主のための安息を土地にも与えなさい」(2節)。安息の年の意味は土地に安息を与える事でした。「七年目には全き安息を土地に与えねばならない。これは主のための安息である」(4節)。土地に安息を与えるのは、主の為です。何故ならイスラエルが所有することになるカナンの土地は、主のものだからです。「あなたたちはわたしの土地に寄留し、滞在するものにすぎない」(23節)。ここから学ぶべきことは、地上の全世界は、人間の所有物ではなく、創造主である神のもの。だからわれわれは自然を乱開発したり、資源を搾取してはならないのです。これが、この律法の基本精神です。
六年の間は、普通に種蒔きして、耕してぶどう畑を手入れして、収穫をしてよいのです(3節)。七年目の安息の年は、穀物の畑も果樹園でも農作業は全て休みになります。安息の年は、種蒔きも、ぶどう畑を剪定することもしません。休閑中の畑:土地を休ませている畑に行って穀物を収穫したり、ぶどう畑の実を集めに行くこともゆるされていません。「土地に全き安息を与えねばならない」。安息の年は、種蒔きも、耕すことも、収穫も農作業は一切しない。土地も自然の恵みも主のものだからです。 これは、荒れ野で40年間マナで養われたイスラエルの場合と似ています。荒れ野で、イスラエルは神が天から降らせるマナという食べ物で養われてきました。主はイスラエルに、こういわれました。六日は間、あなたたちの為、天からマナを降らせる。しかし、七日目の安息日には、マナは降らない。安息日には主は全ての業を休まれた。だからあなたたちも安息日にマナを集めに行くな、と主は言われました。安息日の前日、六日目に、主は二日分のマナが降らせるので、誰も飢えたりする心配はなかったのです。しかし、イスラエルは、安息日にもマナを集めに行ってしまいました。人々は、たった一日の安息日でさえ守れなかったのです。まして、安息の年の一年間、畑を耕しもしないで、主が養ってくださると信じて生きることは、とても難しかったのだと思います。主に全き信頼をおいて従うことは、わたしたちにとってなんと難しいことなのでしょう。
6節「安息の年に畑に生じたものは、あなたたちの食物となる。あなたをはじめ男女の奴隷、雇い人やあなたのもとに宿っている滞在者、さらにはあなたの家畜や野生動物のために地の産物は全て食物となる」七年目の安息の年、われわれが畑仕事を休んでも、主が必ずわたしたちを養うと約束されているのです。イスラエルの民も、奴隷、雇い人、寄留者たちも、家畜や野生動物たちに至るまで、主は必ず養ってくださると約束しています。荒れ野で40年民を養った主は、約束の地でも養ってくださるのです。何故わたしたちは主を信じようとしないのでしょう。
「安息の年を七回…四十九年、その年の第七の月の十日の贖罪日に、雄羊の角笛を吹き鳴らして、この五十年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それがヨベルの年である」雄羊の角ヨーベルが吹かれ解放が知らされた。それでヨベルの年と呼ばれるようになったといいます。
 ヨベルの年は、安息であり、あらゆる負債の免除の為にもありました。それがどうしても必要だと主は言われています。何故なら、貧しさのためにやむなく嗣業の土地を売りはらう人、奴隷になる人々がどうしても出てきます。だから負債が免除され、奴隷は解放され土地が元の持ち主に返却される、それがヨベルの年でした。それは、負債を背負っていた人や奴隷にされた人々にとって人生をやり直すチャンスでもあったのです。ヨベルの年を守ることができればすばらしいです。
奴隷の国から解放されたイスラエルにとってこれは大事な戒めです。イスラエルの民は、もともとはエジプトからの解放奴隷であり、カナンに定住するまでは皆が荒れ野をさまよう放浪者たちでした。イスラエルは、定住して時代が進むにつれて、次第に格差が生じて行きました。豊かな生活をしている人もあれば、他方で生活が困窮する人もいました。貧しい人たちは先祖伝来の嗣業の土地を手放し、ある人々は奴隷に家族を借金の方に身売りさせるしかない人々もありました。それがもともと兄弟姉妹の嗣業の土地だと言われても手放そうとしない人が多かった。兄弟姉妹が奴隷にされているのに解放しようとしない人も多かったと言われます。便利で安く仕える奴隷という労働力を手放したくなかったのです。先祖たちが、エジプトの奴隷から解放されるためにどれ程、神さまが手をかけてくださったか知っているのに、兄弟を解放しないのです。貧富の差がありました。これは、決してイスラエルだけの問題ではありません。我々は、いったん手にした富を中々手放せません。わたし達人間は貪欲です。ですから、この律法はわたしたちがあらゆる貪欲に取り憑かれないために神が与えた知恵です。
イスラエルで、7年に一度の安息の年に土地を休ませたことがあったのか。ヨベルの年に奴隷の解放、負債の免除や土地の返却などが本当に行われたことがあったのか。そこは、非常に疑わしいといわれます。その根拠となる言葉があります。「生き残った者はことごとくバビロンに連れ去られた。…こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地は安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、七十年の年月が満ちた」(歴代誌下36章20~21節)。イスラエルが、バビロン捕囚となった日まで土地が安息したことがなかった、かのようです。主がイスラエルをバビロンの手に渡して、そのことによって主は、土地を安息させられたのです。人間の力では、主の掟は守られなかったのです。
これは、われわれにとっても意味深です。現代になっても、富んでいる人と貧しい人たちの格差はなくなっていません。色々と、格差をなくす努力はされています。失業している人たちに雇用の機会を増やしたり、社会保障を充実させる等。それでも、格差がなくならない。この世の富は、一部の人たちに集中し、貧しい者はさらに貧しくなる。人はこの世の財産に執着し、国々は資源に執着します。他の国々から資源や土地、市場を奪うために戦争も起こします。どんなに集めても満ち足りることができない。それがこの世の有り様です。どれほど富を集めてもやすらぎは得られません。
「わたしの掟を行い、わたしの法を忠実に守りなさい。そうすれば、この国で平穏に暮らすことができる。」このヨベルの年を守ればこの国で平和に暮らすことができると。「『七年目に種を蒔いてはならない、収穫もしてはならないとすれば、どうして食べていけるだろうか』とあなたたちは言うか。わたしは六年目に、あなたたちのために祝福を与え、三年分の収穫を与える。」(レビ記25章20~21節)。ヨベルの掟を守れば、主は3年間、養ってくださる。だから、人間の働きによらず、見えない神の恵みを信じて3年を過ごせと主は言われたのです。しかし、人々は主を信じませんでした。旧約聖書の中で一人だけ、主の恵みによって三年の間、生かされた人がいます。それはエリヤです。彼の時代、イスラエルに干ばつが起こり、三年間雨が降らなかったといいます。その間、最初はカラスがパンや肉をエリヤに運んで来ました。その後、主はエリヤを貧しいやもめの家に滞在させました。彼女にはわずかな麦粉と油しかありませんでした。主が飢饉の間、彼女の家から小麦粉と油がなくならないようにして養われました。主イエスの公の生涯の3年間は、目に見えない天の父の神の働きに頼って過ごされたと言えます。弟子たちにも、そのように歩ませたのです。主が本当に成し遂げるべき御業を成し遂げたのは、奇跡を起こして人々を驚かせた時ではありません。十字架の死によって、全てを放棄された時です。「何よりも先ず神の国と神の義を求めなさい。」 

(説教者:堀地敦子牧師)