主日礼拝説教

主の恵みの年

レビ記25章35~55節、ルカによる福音書4章16~19節

主の恵みの年

レビ25章は、安息の年、ヨベルの年の守り方について記しています。今日読まれたのはイスラエルの奴隷化禁止です。
「もし同胞が貧しく自分で生計を立てることができないときは、寄留者ないし滞在者を助けるようにして、共に生活できるようにしなさい。」主は、貧しい者たちを助けて、共に生きるようにもとめています。貧しい人は、その人自身に理由があるとよく言われることがあります。豊かになるため努力しないからだなどと言われることもあります。確かに、放蕩息子の譬えのように放蕩の限りを尽くして貧乏になる人もあります。でも人が貧しくなる理由は、それだけではなく多様です。貧しさが、本人の責任とは限りません。泥棒の被害に遭う、災害や飢饉、病気や不慮の事故でけがなどのため、戦争などでみんなが貧しくなることもあります。努力したのに貧しくなる人もいたでしょう。 「あなたはその人から利子も利息も取ってはならない。その人に金や食物を貸す場合、利子や利息を取ってはならない」(申命記23章19~20も同様な法がある)。貧しい人からでも利子を取ってお金を貸すのがこの世の常識です。援助を受ける人々が小さくなって生きて行かなければならないことは多々あります。主はイスラエルの民は、そういうことをしてはいけないといわれます。
主がイスラエルを選ばれたのは、数が多い強かったからではありません。数が多いことは多くの人を養う富を持っていることのしるしです。むしろ貧弱なイスラエルを主は選ばれたのです。
「もし同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、その人をあなたの奴隷として働かせてはならない。雇い人が滞在者として共に住まわせ、ヨベルの年まであなたのもとで働かせよ」(39~40)。どんな国でも、どんな時代にも貧富の差があります。この世から貧しい人たちがいなくなることはありません。その理由は、一部の人たちに富が集中するためです。イスラエルの中で奴隷になる者達も出てきます。でもあなたに身売りしたイスラエルの同胞を奴隷として扱うなと主は言われました。ヨベルの年には、奴隷は解放され、負債が免除され借金の抵当にとられた土地なども戻ってきます。その時が来るまで、仕事や住まいについて配慮し、共に生きなさいというのです。これはイスラエルがイスラエルに身売りした場合です。なかにはイスラエルが寄留する外国人に身売りすることもあります。そのような時はどうすればよいでしょう。
「寄留者、滞在者が豊かになり、あなた他の同胞が貧しくなって、…寄留者ないしはその家族に身売りしたときは、…その人の兄弟はだれでも買い戻すことができる。おじとかいとこでも…その人の血縁の者も買い戻すことが出来る」、買い戻しの権利が生じます。兄弟や親せきを奴隷から買い戻すことについて権利と言う言葉が用いられています。身売りした人が、自分で自分を買い戻すことも正当な権利であり、兄弟や叔父がいとこが、親族を買い戻すのも正当な権利だといいます。その額は、その人が売られた金額と、ヨベルの年までの労賃との差額に、従って決まる。もし「誰も買い戻してくれる人がなかったとしても、ヨベルの年にはその人は解放される」のです(54節)。 ここで権利について考えたいのです。自分自身を自由にするための権利の行使ならわたしたちにもわかります。しかし、兄弟や親族を奴隷から買い戻すこと、そのために財産を使うことが権利と言われると、我々には違和感があるかもしれません。自分ではなく、兄弟やいとこ、親戚を自由にすることは権利というよりも、むしろ義務ではないかと感じるかもしれません。
権利は、自分のために用いるものだと思い込んでいます。しかし主は、兄弟や親族を買い戻すことも権利であるといわれます。しかし、イスラエルでこのように権利を用いられていたのか。非常に疑わしいことです。人は他者のために自分の権利を用いることはなかなかできません。
しかし主はイスラエルのために、御自分の正統な権利を用いて民を救い出されました。「イスラエルの人々はわたしの奴隷、エジプトの国からわたしが導き出した」からです。主は、人間の救いの為に権利を行使されたのです。イスラエルは、御自分の宝の民だから、自分の子であるからと言われるのです。主は、イスラエルの偽の主人であるエジプトから、彼らを買い戻しなさったのです。それが出エジプトです。 もともと数も少なく弱小の民であったイスラエルに主は御心を留めたのです。イスラエルが、エジプトに寄留するようになったのは飢饉から逃れるためでした。飢饉からの非難所だったはずのエジプトで、イスラエルは奴隷にされて、酷い目に合ったのです。過酷な労働、男児殺害命令など、イスラエルは何度も滅亡の危機にあってきました。そんなイスラエルを、自由にしてくれる者は、誰もいませんでした。エジプト人たちは、イスラエルを過酷に扱いながら、それでいて自分たちの便利に使える奴隷として手許におこうとしたのです。主はそのエジプトから強い手を持って救い出されました。彼らを自由にし、約束の地に導いて来られました。
奴隷制度は昔のことで現代人に関係ないことだとわれわれは考えます。はたして、そう言い切れるでしょうか。現代人は、いつも誰かの弱みにつけ込んで他者を言いなりに支配しようとします。かつてのイスラエルの時代奴隷たちは、貧しさという弱みにつけ込まれて支配されました。昔は、貧しさが、最大の弱みだったのです。現代でも人は、誰かの弱みを握って、人を自分の言いなりに支配することがあります。現代は、巧妙なやりかたで、行われます。ニュースで報道されるハラスメントいじめもその一つです。子供たちの中で、いうことを聞かないと仲間外れにすると脅して友人をいじめたり、同僚の教師を奴隷のように扱ってしまう事件もありました。そういうことが繰り返し起きているのです。奴隷制度がなくなっても人は人を抑圧する。本当に人間というのは、支配欲が強いのです。すべてを自分の思うがままに支配し時には圧力をかけたりすることが自由だと思い込んでいます。しかし、それは本当の自由ではありません。真の自由は主の中にあります。「人は罪の奴隷になって死に至るか、神の奴隷になって義に至るかどちらかなのです」(ローマ6章16)
主はエジプトの巨大な支配からイスラエルを解放し、主の民となさり、我々に真の自由の道を示されました。「今や人を奴隷とする例ではなくアバ父よと叫ぶ御子の霊」(ガラテヤ4章6)を受けて神の子とされています。そこに真の自由があります。 しかし我々は、主による自由を喜んでいなかったのです。イスラエルが、エジプトの方がましだったと、繰り返し言うのはその為です。荒れ野で主に仕えるよりも、エジプトの富に囲まれてファラオに仕えて奴隷でいる方が良かった。イスラエルはそんなことを言い続けました。我々もそうなっていないでしょうか?信仰の自由よりも国や権力者に逆らわない方が、迫害も受けないし安心ではないか。強い者や富んでいる者たちに、すり寄って生きる方が楽なのではないかと思います。罪の力がわたしたちをそのようにさせるのです。
罪の奴隷であることになれてしまったわたしたちを解放するために、主イエスがこの世に来られたのです。主は御自分の民のところに来ましたが、民は受け入れなかったのです。「捕らわれている人に解放を…圧迫されている人を自由にし主の恵みの年を知らせるため」出エジプトはわたしたちに真の自由を示し、主の恵みの福音への招く出来事です。罪に捕らわれたわたしたちを自由にするために、主イエスは自らを罪人の手に渡されました。主は、十字架に掛かりわたしたちを罪の奴隷から解放されました。我々は、キリストにあって真の自由の中に生きています。ヨベルの年の解放は、人間の力では実現しませんでした。キリストがこられて、わたしたちに罪から解放し、真の自由を実現されたのです。「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5章1節)  

(説教者:堀地敦子牧師)