主日礼拝説教

心を新たに

エゼキエル書36章25~28、ローマの信徒への手紙12章1~2

「心を新たに」、
どこか新しい響きがしませんか。

どこか、心躍るような感じがしてきます。「心新たに」、そう聞くと、今までとはどこかちがう、新しい一歩踏み出せそうな気がします。 聖書はこう言っています。「心を新たにして、自分を変えていただき…」。心新たに、新しい自分になるためには、「変えていただく」。自分自身を「変えていただく」必要があるのです。自分で自分を新しくするのではありません。神様によって、新しくしていただく。教会も、この世界も、わたしたち一人ひとりも、キリストの父である神様によって、新しい自分になることができる。新しく変えていただくことができるのです。

ローマの教会に宛てられた手紙の12章には、
礼拝のことが述べられています。

教会は、日曜日の朝、神様に常に礼拝をささげています。でも、ここで述べられているのは、もっと広い意味での礼拝です。わたしたちがささげるべき礼拝、それは、「自分自身の体を、神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして献げること」です。つまり、日曜日の礼拝から出発して、日々の生活すべてが、「神に喜ばれる、聖なる生けるいけにえ」となるような、そういう生活を目指そう。そのように呼びかけられているのです。 教会の礼拝には、なくてはならないものがいくつもあります。たとえば、「お祈りと讃美歌」、「聖書と説教」、さらに聖餐式、それから「献金」です。献金といいますから、お金をささげているのですが、これは神様にささげるものです。お祈りも讃美歌も、心をこめて神様にささげています。説教も実は、神様にささげるものだ、と言われる場合があります。

礼拝で、すべてを、
神様に感謝してささげています。

献金は、ただお金をささげているわけではありません。そこで本当にささげられるべきは、わたしたちの心です。体です。自分自身を、感謝のいけにえとして、神にささげます。それが献金の心です。 それにしても、なぜでしょう? どうして礼拝で、何もかも、神様にささげようとしているのでしょう? それは神がわたしたちを愛してくださっているからです。「わたしたちが神を愛した」からではなく、「神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子イエス・キリストを」遣わし、おささげになったからです。ここに神の愛は、表されました。

この意味で、
礼拝にどうしてもなくてはならないもう一つが、聖餐式です。

お祈りも讃美歌も献金も、わたしたちが神様にささげる、捧げものです。でも聖餐式はちがいます。聖餐は、イエス・キリストが十字架にかけられる前の夜、弟子たちを集めてなさった最後の晩餐から始まっています。わたしたちと罪と滅びから救い出すために、神の独り子キリストが、ご自分の命をささげる。十字架の上でおささげになった。キリストが勝ち取られた救いが、わたしたち一人ひとりに与えられます。それが洗礼であり聖餐です。聖餐も、礼拝の中でささげられる、いけにえです。しかしこれは、神様から、わたしたちのために。わたしたちを救うために、神様がささげたいけにえであり、ささげものです。わたしたちのためにといって、神様の方から、ささげてくださったいけにえ。しかも、ささげられたのは、救い主キリストそのお方であり、その体と血潮であり、命です。

礼拝の度にわたしたちは、説教と聖餐を通して、
救いの贈り物を、神から受け取っています。

たとえ聖餐式がない日であっても、み言葉を通して、神がわたしたちのためにささげたキリストといういけにえを、信仰の心で受け取っているのです。神が、わたしたちを惜しみ憐れんで、掛け替えのない独り子を、十字架の上におささげになりました。この神のささげ物を、心から感謝して受け取っているのが、わたしたちの礼拝です。 わたしたちが願うよりも前に、神がわたしたちを救うため、キリストを犠牲としておささげになりました。だから、この神の愛のささげものを受け取ったわたしたちは、心の底から感謝して、自分自身を神様にささげるようになります。単にお金を支払うのではありません。お金では決して手に入れることのできない、神の愛と罪の赦し、永遠の救いを、ただ信じるだけで与えられています。あふれるほど、与えられています。だから、ほかの何ものでもない、私自身を、喜んで神様にささげます。これは感謝のささげものです。自発的にささげられるものです。義務とか強制されるものとはまったくちがいます。 十字架のキリストに表された神の愛・神の恵みをあふれるばかり受けたならば、だれもが、喜び、神に感謝して、自分自身を神にささげずにはおれなくなります。キリストの愛が、その命が、そのようにわたしたちを駆り立てるのです。 こうして、わたしたちはイエス・キリストによって、新しくされていきます。わたしたちの古びた心を、キリストが、新しくしてくださいます。冷たく、冷え切ったわたしたちの心に、キリストが聖霊を送ってくださいます。聖霊の炎が、わたしたちの心に、信仰の火・灯を、新たにともしてくださるのです。

聖書は、続けてこう言っています。
だから、「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」と。

「この世に倣ってはいけない」、なぜなら、わたしたちが倣うべきお方はたった独り、わたしたちの救い主イエス・キリストだけだからです。今年のわたしたちの教会の目標は、「キリストに倣うー互いに愛し合いなさい」です。「キリストに倣う」とは、キリスト以外には、何ものにも倣わないこと。罪に支配され、わたしたちを惑わすこの世のあり方には、決して倣わない。心を惹かれない。この世にあこがれない。この世の価値観を目標にしない、基準にしない。わたしたちが目指すのは、イエス・キリストです。キリストだけです。物事を判断するとき、物の良し悪しを判断するとき、自分自身やこの世を基準にしてはいけません。進むべき道をまちがえるからです。日常のすべてにおいて、神様、キリストだけを基準とし、よりどころとする。父・子・聖霊の神を信じ、その御言葉だけを信頼し、よりどころとして歩むなら、わたしたちは常に新しい。外なる人は衰えても、内なるわたしたちは、主によって日々、新たにされていくことでしょう。そのようにして、終わりの日に、神の国を受け継ぐのです。

聖書は言っています。
「心を新たに、自分自身を変えていただき」なさい。

「神が何を望まれ、何を求めておられるのか」、神の御心が何であるかを、日々、追い求めていきなさい。そうすれば、何が善いことで、神の御心にかなうのか。神に喜ばれるとはどういうことで、完全とは何であるかが、わかるようになるでしょう。 ときどきこういう声を、教会で耳にすることがあります。「神の御心は、わからない」。そうです、だからこそ、探し求める、探し続けることが大切なのです。 神様がわたしたちに呼びかけています。「神の御心を尋ね求めよ」と。 何が神の御心か、試してみなさい。試行錯誤してみなさい、試行錯誤しながらでよいから、何が神に喜ばれ、何が善いことで完全であるか、追い求めなさい。 わたしたちは決して完全ではありません。キリストを信じて、洗礼を受けたからといって、すでに完成しているわけではありません。むしろ、残る罪に悩み、様々な弱さを抱えています。何十年聖書を読み続けても、今日、神の御心がわからなくなることだって、少なくありません。しかし、だからといって、あきらめてはいけない。 神の御心を全て悟らなければ何もできない。そんなことを言っていたら、何も始められません。でも神様は言います。たとえ今はまだ完全にはわからなくとも、完全を目指して、試行錯誤しなさい。悪戦苦闘しなさい。そういう歩みの中に、神が、そしてキリストが、共にいてくださるにちがいありません。信仰の試行錯誤を通して、神はわたしたちを少しづつ完全な者、新しい者にしてくださるのでしょう。

大切なのは、わたしたちが新しくしていただくために、
何よりもまず、神に信頼することです。

どんなときにも、わたしを導く神がいてくださることを信じて、神の御言葉にいつも聞いていくこと。そして、聖書の御言葉に従ってみること。わたしたちの思い・考え、言葉と行動、それらすべては、神様の栄光のために。わたしたちの存在、また歩みを通して、世の人びとが、神様の存在を知ることができるように。神に感謝をささげるわたしたちの日々によって、神の御名こそがほめたたええられるように。そうなることを心から祈りつつ願いつつ、教会は歩み続けます。イエス・キリストに倣う道です。 何が正しいか、何が善いことで、神に喜ばれるのか。わたしたち人間にはなかなかわかりません。それでも、一つ言えることがあります。神に喜ばれるとは、自分にとってこれが喜びだとか、自分にとってこれが正しいと思われる。そうしたものが、神の目に正しく喜ばれるわけではないのです。わたしたち罪人が自分の中に持っている物差しは、いつもどこかずれている、罪に犯されています。むしろ、わたしたちは、常に神様に心を開いていくこと。神が喜ばれることとはいったい何なのか? いつも謙虚に、神様の言葉に聴いて、神に祈って歩むことが求められます。

御心がわからないと思えるときも、
神の導きがそこに必ずあること信じて疑わない。

神に祈りつつ、神の言葉から決して離れず歩むなら、そのような歩みそのものを、神は喜んでくださるにちがいありません。これこそ神に祝福された生き方、神によって日々新しくされていく人生です。キリストにかたどって、わたしたちを、もう一度、新しくする。父なる神がわたしたちにしてくださった約束よりも、確かなものはありません。

(説教者:堀地正弘牧師)