主日礼拝説教

世に命を与える

詩編78編12-29節、ヨハネによる福音書6章22-35節

世に命を与える

近年の天候気候の変化の大きい中、たび重なる自然災害を経験しながら今を迎えていますが、今朝は早くも、秋の深まりを一気に感じる時となりました。街では早くもイルミネーションなどの飾り付けが行われ、商業施設ではクリスマス・ソングが流れるようになりました。季節感を出すためか、キリスト教会よりも宣伝効果を意識しながら、早く暦が進んでいるように感じます。それも、元の意味を取り違えているハロウィーンの仮装自慢が終わったと思えば、その翌日にはジングルベルの鐘の音がにぎやかに聞こえている状況です。本来ある意味などをよそに、商業ベースに乗ってイメージだけが注目されてしまい、毎年この時期になると複雑な思いが湧いてきます。それでもキリスト教会は福音宣教の使命を担いつつ、この世の暗闇に真理の光をもたらした救い主の御降誕を悔い改めと感謝の思いをもって覚え迎える期間として、特別な意味をもって備えの時に向かいます。このような中で私達はしばしば世の中の変化に翻弄され、慌ただしさの中に流されてしまうことがありますが、今このようにして御言葉に聴く時間と場所とを与えられております。その恵みに応えるべく、御子イエス・キリストとの出会いによって示された神よりの救いの約束を受け止め、神の御心が何であるかを思い起こします。
今朝は教団聖書日課によりヨハネ福音書から御言葉に聴きますが、今朝の箇所は、前の4章において指示された特徴的な言葉を受けています。それは、信仰についての様々な話題の中で、完全な手本の例として示されており、殊に主イエスの人格への信仰が注目されます。主イエスは、ユダヤの地における預言者でありかつ王としての、そして奇跡を行う者として、モーセにおいて示された地位を完成されたと言われることに関して、厳しい論争に立たされました。そこでこの福音書の中では、主イエスへの信仰の根幹をなす事柄について、力強い宣言が示されています。その中で、ユダヤ教の伝統に従って救い主なるイエスを理解しようとするために、イエスに対する受け止めはもちろんのこと、新たに示された福音信仰を受け止めることができないという立場が対立します。
この立場に対して福音書の著者ヨハネは、まことの信仰は御子イエスを見ることで確かなものにされると伝えます。そこで今朝の箇所から後になりますが、関係が深い部分でもありますので、ここで確認しておきます。6章40節です。そこにはこう記されています。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」とあります。主イエスの救いの出来事は、贖いのしるしとしての十字架の死と、永遠の命に至る復活のいのちへと向うことにあります。そして主イエスを信ずる信仰に招かれる者に、キリストの救いに与るいのちと言葉が、神の御業の只中で具体的な出来事として表されます。今朝の場面は他の福音書と同様に、五千人に食べ物を与えるしるしとガリラヤ湖の上で起きた出来事の証しに続いて、その「しるし」の意味を明らかにされる主イエスの説話です。何よりもここはヨハネ福音書にしか記されていないもので、特徴的な表現で真理を伝えてきます。それは五千人への給食の奇跡が行われた場所から、主イエスを捜して追いかけてきたガリラヤの人達が、カファルナウムで主イエスと再会して繰り広げられた論争が背景にあります。
興奮冷めやらぬ群衆は、奇跡が行われた「湖の向こう岸」に留まって一夜を過ごしました。彼らはまだ主イエスがその地を離れたことを知りませんでした。それからしばらくして小舟が一艘しかないことを見て、弟子達が前日の夕方、別の舟に乗り込んで行ったことに気付きました。またそこには主イエスがいないと知ると、彼らは主イエスもその小舟に乗り込んで弟子達と一緒にカファルナウムに行かれたと解釈しました。そこで彼らは、おりしも小舟が近づいてきたのをよしとして動きました。23節以下です。「ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近付いて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。」ということです。誰しもが主イエスをユダヤの王にすれば、地上に楽園が出現するという目先の望みを捨て切れていないという事態です。福音書記者のヨハネは、そのことを退ける意味を含めて、ここで主イエスが感謝の祈りを捧げられたことを織り込みました。これはまさに、キリストが僅かなパンで多くの人々を十分に養うことを可能にさせたのは、主イエスの祈りによるということを強調しています。
一方の群衆は、小舟に乗って「湖の向こう岸」のカファルナウムで、お目当てのイエスと再会し喜びを共にしたのかと思えば、さにあらず。イエスを地上の王として抱いていた思いは、真っ向から打ち砕かれました。それは彼らが主イエスに問いかけた言葉、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。」との問いに、主イエスは彼らの思惑を承知で、目先の思いに駆られる彼らの心に挑みました。それは彼らの主イエスに対する熱心な期待が、徹頭徹尾、主イエスのなされた奇跡に対して全くの誤解にあり、主イエスから見れば、明らかに不信仰だからです。彼らは単にお腹を満たしただけで、霊的に飢え乾いている精神状態に気づいていません。彼らには、神に対する深刻な罪意識も、また高い霊的な生活への望みもなく、気楽に遊んで暮らせる楽園の来ることを願っていたに過ぎなかったのです。そうであるからこそ、主イエスは彼らの問いには直接的に答えません。彼らには主イエスによってなされた奇跡の正しい理解がなく、キリストを自分の思いの中に収めてしまい、実際キリストと出会っていながら、キリスト以外のものを求めていました。そこにあるのは、彼らの心の内にある欲望によって自分達の腹を満たすために主イエスを利用しているに過ぎず、自分達の思いを最優先に叶えるために主イエスに近づいています。確かに彼らは主イエスのなさる奇跡を見ても、常に自分の心が満たされるためでしか見ないために、主イエスに咎められたのです。
神の御業における成長とは、年齢を重ねたり経験を積んだり、土地や財産を蓄えることではなく、それも無いよりはよいのでしょうけれども、そのことに驕り高ぶって胡坐をかいたり権威を振りかざして自分を大きく見せたりしては本末転倒であり、何よりもイエスをメシア、キリストとして、この世に命を与える救い主として受け止め、御子イエスによって教え導かれる中で、神の御国を待ち望むことが大切です。それにも関わらず、彼らは左うちわで気分よくお気楽に暮らすことしか心になく、自分の都合で自分のはかりの中に主イエスのなさる業を望んでいるに過ぎないことを知り得ません。言い換えれば、それは神を自分の思いの中に収めて、神を従えて利用しているとは思っていないということです。主イエスが御父から与えられて人々にその姿を現したのは、神の御霊を授けて人々を神の似姿に造り替え、神の義をまとわせて、神と共に生きる永遠の命に招き導くことにあったのです。ですから、主イエスの奇跡が私達をどのような目的に招いておられるのかを真剣に思い返すことが大切なのです。キリストの恵みに与ることを願うならば、この世のこと、身の回りの出来事を絶えず客観的に判断し、神のご支配と神の義を求めることが大切です。このことは マタイもルカも記しています。ヨハネは、主イエスが「よくよく言っておく。はっきり言っておく」と繰り返し述べ、この誓いの言葉によって人間の心の奥に隠された悪徳をえぐり出し、明るみにされます。当然ながら、それを曝け出されることを拒む者は、表向きの偽りの姿をしているのです。
そこで主イエスは、ガリラヤの人達に強く厳粛に真理を語られます。27節です。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」とあります。主イエスが満たすことのできるのは、「いつまでもなくならない永遠の命に至る食べ物」を求める霊的な飢え渇きです。これは直前にあった五千人に対する「しるし」を通して、父なる神が御子イエスの使命として御力を示されたことに他なりません。そこから「いつまでもなくならない、永遠のいのちを与える食べ物」を与える権能が主イエスに授けられているのです。主を信ずる私達は、その霊的な食べ物を第一として生きることが求められ、問われ続けています。ところが人々は目先の奇跡を求め、かつてイスラエルの民が荒れ野で「天から」与えられるマナを見た時のような「しるし」を見ることを要求し、第二のモーセであるイエスのしるしを、同じような思いで要求しました。そこで詩篇78編24節の言葉を持ち出して、自分達の思いが正しいとばかりに主イエスに詰め寄ります。しかし主イエスは、彼らの相変わらずの心を見抜いてこう指摘しました。「モーセが天からのパンを与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは天から降ってきて、世にいのちを与える。」と。イスラエルの民が今まで聴いてきた荒れ野のマンナというものは、実際モーセが与えたのではなく、わたしの父である神が与えたのだ。天の父なる神が与えるまことのパンは、世に命を与えるものであって、食べればなくなってしまうような物質的なマンナではないと、主イエスは、「天からのまことのパン」を「神のパン」と表現しました。これは、人々を永遠の命に至らしめ生かしてくださることを伝えています。
私達はたとえ生物学的に呼吸をし心臓が動いていたとしても、また法律的に住民登録や生存確認がなされていても、キリストを信ずる信仰によって生かされているのでなければ、神と共に生きる道を歩んでいなければ、神から見れば死んでいるものとされているのです。聖書の伝える真理においては、キリストの他に消えて無くなるいかなるものに頼っても永遠の命はないことを徹底して伝えます。神から離れること容易い罪人のためにキリストがこの世に来られ、贖い主・救い主として十字架にかかり、全きいけにえとして神に捧げて三日目によみがえり、そののち天に昇られて全能の父なる神の右にいましたもうことは、まことに感謝すべき御業であり、この一連のことが信じられ、生きる力となっていること事態、計り知れない奇跡です。この世に命をもたらす神の御業、御子イエスの御言葉は、まさに恵みの糧であり、受けるに尊い何にも替え難い「神のパン」です。
ガリラヤの人々は、主イエスに向かって、あなたが神のパンは世に命を与えると言うならば「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」と詰め寄ります。これはあのサマリアの女性と主イエスとの対話を思い起こさせるところです。サマリアの女性は主イエスに「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」と言われ、「その水をください。」と即座に願い求めました。ガリラヤの人々がモーセのマンナの話を持ち出して主イエスに向かってくるので、主イエスがマンナ以上のもの、まことのパン・世に命を与えるパンがあると返しました。それでも彼らは、そうかそうだったのかとは納得せず、ますます激しく「そのパンをいつもわたしたちにください。」と言います。しかし、1度だけでは納得できない、満足しないのです。救い主であるならば、いつでもどこでも何度でも与えることができるであろうと思いながら、彼らは主イエスに向かって「いつもください」と言いました。確かに、神は人の思うような度量衡の制限はないのでしょうけれども、そうならば「いつもください」とはいかがなものかとも思います。さすがの主イエスも呆れたか苛立ったことでしょう、彼らの言動が余りにも物分りが悪いので、ついに主イエスは、そのパンが何であるかをはっきりと告げます。「わたしが命のパンである。」と。主イエスは自分こそがマンナ以上のパン、永遠の命を与えるパン、人々を永遠の命へと導くパンであると告げます。このパンを食べる者は、もはや飢えることはありません。主イエスを信じるということは、この命のパンによって養われて生きるということです。こののちに主イエスは彼らに向かって宣告します。「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降ってきたパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は、永遠に生きる(57-58)」と釘を刺しました。信仰は決して心の中だけ、一時の心持ちではなく、実際に一日一日生きるということと常に結びついています。多くの人々が心に浮かんでは消えていく思いには、何を目的に心を燃やし何を幸せだと思うのか、人生の歩みの中で何を目指してそれを行い、何を希望として生きるのかということではないでしょうか。信仰は現実の只中で存在し、具体的な生活、一人一人の生き様の中で深く結び付いているものです。私達が信仰を与えられ、命のパンである主イエスによって生かされるということは、この神の大いなる思いに信ずる者として招き入れられているのです。ここに何よりも替え難い幸福があるとも言えるでしょう。
ヨハネ福音書に貫かれている御言葉は、まさに3章16節に集約されます。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」と。人々の心が冷え、国と国とが睨み合い、いつでもどこでも誰とでも一触即発のような殺伐とした生きた心地のしない暗い今にあっても、なお神は猶予をもってこの世に命を与えてくださるのです。主イエスはおっしゃいます。「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい(12:35-36)。」と。
たとえ暗闇の中に閉じ込められて抜け出せない先の見えないような中に置かれても、殺伐としたこの世にあっても、永遠の命を指し示す福音の真理を抱き続けたいと思います。そして来たるべき裁きの日、終わりの時を心から感謝をもって迎えられますよう、上よりの力に依り頼み、「命のパン」を日毎の糧として頂きつつ信仰に生きる者として歩めますよう願うものです。

(説教者:鮎川 健一牧師)